テラノハ

言葉は涙だ。とベケットは言った。

傷こそが。

※本稿は『シェイブオブウォーター』と『レディプレイヤーワン』の終盤の展開に触れています。
ネタバレがいやな方はご退出ねがいます。


傷こそがその人を生かす
というのが僕が『シェイブオブウォーター』と『レディプレイヤーワン』で泣いたところだった。二日続けて見に行ったレディプレで、まったく同じところで泣いた。
まずそのシーンについて詳述する。
レディプレはとにかく沢山のオタク向けポップカルチャーが出てきて、それ自体も涙ものの祝祭だったけど、僕が泣いたのはヒロイン・アルテミス=サマンサのあるカットである。
サマンサは父を徴収センターでの労働のために無くし、その原因である巨大企業IOI社と戦う反乱軍の戦士である。オアシス上ではアルテミスの名で恐れられ、主人公ウェイドの憧れの人でもある。中盤のダンスクラブのシーンでウェイドから現実世界でも分かり合える、会おうと持ちかけられたアルテミス(サマンサ)は「これは私が人に見せたい私。現実の私に会えばきっと失望する」とにべもなく袖にする。ネットでの出会いなんてその程度のものなので正しいネットマナーなのだが、映画では2人は出会うことになる。
サマンサには右目の周りにアザがあり、そのために少し鬱屈してもいる。それをみてウェイドは失望なんかしてないよ、と優しくすることだけが取り柄のオタクと同じようなキザなセリフを吐くのである。
そして泣いたシーンに話を飛ばす。
最終決戦としてオアシスの中でIOIの実務のトップ、ソレントの操るメカゴジラと対峙するアルテミス(サマンサ)。彼女の顔にはこの戦闘でおった傷により血がかかり、右目の周りは現実のサマンサの似姿、あざのようにもみえる。そんな彼女が投じた爆弾でソレントのマッチョなアバターが爆裂四散する。まるで『マッドマックス 怒りのデス・ロード』で「Remember me!」と言いながらイモータンジョーの口を裂いたフュリオサのように。
ここ!!!!ここで一番泣いた。アラン・シルベストリの80年代大作的なストリングスがここで一番野太く力強くなり、その叙情的な音楽にもヤラれ、完全にいてこまされた。こんなん泣くしかない。
見せたい自分としてのアバターが肉体としての傷を獲得することで現実の身体と同化して、現実仮想現実の境を融和する。よく「ゲームばっかりしてて勉強しなさい」と言われるが、これはゲームと現実の区別をつけるから起こる誤謬である。ゲームも現実の勉強も認識の主体・行動の主体は本人自身であって、ゲームの方がより成功報酬や快楽原則に忠実にデザインされているからハマりやすいだけで、本人が自律的に取り組まないとなにもならない。
レディプレはもちろん夢が詰まっていたけども、その夢も映画館の暗がりの中でみるものであって、僕は白昼の現実と対決していかなくてはいけない。

次に『シェイブオブウォーター』の泣いたとこ、これはもうラスト。最後に幼い頃から残った首のひっかき傷みたいな傷跡がエラのように開いて主人公のイライザは彼と幸せの海に融けていく。
むろんこの映画はジャイルズの語るおとぎ話であって現実や事実とは違うのだろうけど、想像力が見せてくれる力強いイメージには涙がこぼれる。
傷こそがその人を生かす。そうスピルバーグやデルトロという敬愛する映画監督が優しく語ってくれたように思えてとても嬉しかった。

表現は慰安の道具ではないから、受けた恩はなんとかして繋いで伝えたい。
それならせめて傷だらけのこの23年ちょいの人生も報われる生き方じゃなかろうか。
明日も稽古がんばるぞい。