テラノハ

言葉は涙だ。とベケットは言った。

山姥なぼく

今日は銀座で山姥という能を見た。
雪が降るなんて思ってなかったので意味がわからなかった。ついこの間まであったかかったじゃん。
三寒四温にも限度ってものがあろうよ限度ってもんが。

山姥というのは昔話にでてくるあのやまんばである。
僕は三枚のお札の山姥がすごく怖くてよく覚えている。
妖怪とか鬼とか山姥とか昔話によく出てくるけど、実際にはなんらかの疾患のある普通の人間のことだったのではないか。小豆洗いは強迫神経症気味の汚いおじさんで、子泣き爺は単に重心をとるのが下手なボケ老人、砂かけババアはヒステリーのばあさん、山姥は山に暮らす偏屈なばあさんだろうか。
里というのは今も昔もウェイたちが楽しくワイワイ暮らすところで、山の民はそういうのとは距離を取りながら行き来することで暮らしていた人たちなのかなーと思う。
今日の能は白洲信哉さんの白洲正子と山姥という講演があっておもしろかった。
そういう山の民抜きに日本の芸能を語ることは出来ず、山の民、つまりは修験者は明治維新と共に廃れていったという。西欧列強の一神教スタイルに合わせるために廃仏毀釈が起こったり、一木一草に魂が宿るといういわゆる八百万の価値観は押しのけられてしまったとか。『火の鳥』でも昔から日本にいる神様と仏教勢力が激突する話が出てきてすごく好きだったが、日本はよくもわるくも白黒はっきりつけない緩やかな神仏習合が1000年以上も続いていて、そのバランス感が湿潤な風土にはあっていたのではないかと思う。
一神教は過酷な環境で生まれやすい宗教で、日本だとたしかに地域差がありすぎて一つの色には染まりにくい。どこかの大統領は壁を作ろうとするけども壁を作る前にぐちゃぐちゃに混じりあってる多様性というかダイバーシティが日本の昔のどこかにはたしかにあったのかなーと思った。

経済的合理性を追求してみると、宗教なんてまったく不要なものでしかないのだろうけど、人間が長い時間をかけて育んできたものを無駄とかいって切り捨てたり切り詰めたりすると、病的なものが出来上がってしまう。人間はそんなに丈夫でも清潔でもない。物質文明とかデジタルとかを敵視してもしょうがないし、便利なものは不可逆的に生活を豊かにしてくれるからアーミッシュみたいな生活をしろと言われて出来るものではない。
今日見た山姥の中でも西方十万億土の浄土とか仏教的なワードがたくさん出てきた。
日本の芸能といわれるものはそういう民俗や宗教抜きには成り立たないだろうと思う。新日本風土記とか見てるとよく分かる。

俳優になりたいと思って東京にいるのだけど、ついつい自分が動物であることを忘れる。電車に乗って大勢に囲まれながら、スマホで知らない人とも顔を見ずに交流しているとよく忘れる。
別に東京の人がみんな疲れてるとかありがちなクリシェを言いたい訳では無いけど、生活の中になんらかの信仰なり宗教があってもいいのでは?とは思う。
僕は寺生まれなので小さい頃から将来は継ぐの?とさんざっぱら言われてへそを曲げて俳優なんてアコギな河原乞食になろうとしている。だけど寺から遠く離れたつもりが、芸能ということの根源を見つめると近しいところに帰ってきてしまう感があり、お釈迦様の手に落書きした孫悟空の気分だ。
昔、寺は税金かからんからいいねとか、人が死ぬ限り食いっぱぐれないからいいねとやっかまれたことがあり、すごくいやだった。父や伯父や亡くなった祖父をみていて業務や職業として坊さんをやっている印象は受けず、先述の山の民に近いというか、そういう生き方しか出来ないのだと思った。目には見えないけど大事なものがたしかにあり、そういうものに心を向けられる人がいてよかったと思う。
僕のブログも読まれているらしく、身内にはお坊さんになるしかない(くらい生きづらそう)と評されている。まぁ実際生きやすさの感知しにくい体なので今更なのだけど、お坊さんになるよりも芸能者として飛んだり跳ねたり大声出したり感情労働をする方が僕にはあってると思う。
別に取り立てて背が高くて顔がいいわけでもないのだけど、モデルやスターだけが映画や演劇をやってきたわけではないと思う。資本主義や共産主義や経済原理が発明されるよりも前から人々は演劇的な行いを遠くギリシャの頃からやってるわけで、そういうのは簡単になくなったりしないと思う。

なんか真面目なことを考える日である。そりゃ雪も降るわな。
大学2年の時に京都にいわゆるお坊さんの修行にいった。そこには同年代の寺のせがれや脱サラした生きづらそうなおじさん、お経の文字もよく見えないおじいさんまで幅広い人がいた。僕もとりあえず資格だけとっとくかという軽い気持ちでいったのであまり人のことは言えないが(資格は取るのに三年かかるので取り損ねた)、こんな寺のボンボンもおるんかーと思うような人を見た。
小さい頃から大きなお寺で裕福に可愛がられてきたらこういう人間が出来上がり、そういう人間がお坊さんとして全国に群生してるのかと思うとなんというかただのチェーン店の勉強会みたいに思えてきてグロテスクだった。お寺を継ぐというのは単に土地の利権とかを相続するみたいなゲスな意味ではなくてもっと大きな、目に見えないものを大事にすることだと思っている。

演劇だってあらかじめ決められた言葉に目に見えない力をもたらせるように試行錯誤するわけで、それを大勢で作るのだから面白いに決まっている。お坊さんの有職故実も覚えれば面白いのだろうけど、僕には妙にしゃっちょこばって権威づける空疎さを覚えた。

まぁなんかいつになく自分語りしちまいましたね。
ほいじゃー。