テラノハ

言葉は涙だ。とベケットは言った。

セックスしないビッチになりたい

風邪かと思って病院に行ったらアレルギー性鼻炎の症状らしい。咳喘息にはなりたくないな。
体が弱いと軟弱だなどと謗られるけど、人間いつかは老いて病になって死んでいくのだし、それが人より早かっただけだと諦める。
元気な人だと病気も元気とか、よくわからん格言があるがようは慣れてなくて体の変化に対応できてないのだろう。
こちとら生まれてこの方調子のいい時の方がすくねぇやい。
調子が悪いと周りに当たってしまって情けなくなることが多い。きっとお年よりもそういう葛藤を抱えて甘えている自分を鼓舞しているのだろうか。
純粋に汚くてうるせぇ顔の見えないジジイババアのことは純粋にしらねぇ。家族や社会にしてきたことのツケかもしれん。
でも困ってる人は助けたい。困ってる人の困り方や受け取り方にまで文句はつけられないから、なるべく機嫌よくいたい。
老いるのも病むのも死ぬのも忌避することは呪いであって、ぼくもいつかそっちになってしまうのだ。いいとか悪いとか好き嫌いもなく。

若者は老人を憎み、老人は若者を妬むのはいやな世の中なので、ぼくはぼくとしてそれなりに生きていかせてほしい。よろしく頼む。

感冒によって着想を得ることはままある。
ビッチと言われるのはいつも女の人で、そういう時はたいてい情が深すぎるか、幼少期のトラウマで過剰に寂しがりか、その他もろもろだったりするのだろうが、男の場合はあまりそれを言われないのが不思議である。
ヤリチン/ヤリマンというのは語として的確とは思えず、チンポを出し入れできた穴の総量やオメコに抜き差しさせてやった棒の本数で人間の価値が測れるとも思えないのでなんともいいがたい。
ようは男女の非対称性が気に食わんのである。

あとこれは経験としてヤリマンなりビッチなりの卑語を使って相手を貶めるのは集団の時にやりがちなので、あまり友達の多くないぼくはやめてくれと思う。数を頼みに押し切るのは美しくない上に、それだと僕負けるし。
男と女ないし男と男、女と女などなど人間の関係性においてはおよそ仲の良さのグラデーションがある。
ところが性交渉がコミュニケーションの俎上に上がった途端、このリキッドタイプのグラデーションがソリッドで破局の可能性の高いものになってしまう。
それはなぜなのか。生物の本能なのか痴情のもつれなのか。
ものはいいようで、本能なりもつれといえばわかった気になれるのだが、ぼくはそういうもつれをちまちまちまちま解いてみたくなるのである。

要は所有欲の問題なのか。
あいつはオレのもの、オレはあいつのものといった所有・独占の欲は恋愛において欠かすことの出来ない概念である。フリーラブセオリーを謳った大杉栄が恋仲の女に刺されたりしたことを思い出してほしい。理論や理屈は正しくても情緒や感情はそれを許さない。
ビッチに話を戻すと、ビッチと呼ばれる女性は自分の体の持ち主を自分以外に譲渡しないばっかりに、所有したがりの男たちから糾弾される。男もホントはヤリチンごっこがしてみたいのかもしれない。その裏返しとして風紀を紊乱し、自分のしたくてもできない欲望を実践する女を誹謗するのかもしれない。これがヤリチンの場合だと男から凄いことと捉えられるのが非対称性である。同性からの眼差しとしてはヤリチンもヤリマンも蔑視されうるのかもしれないが、ヤリチン認定とヤリマン認定の重みが違いすぎるのがなんなんやろかと思う。

単にオツムもオマタも緩いだけの人なのかもしれないが、どんな門扉をも開けうる鍵屋は凄いということになる。どんな鍵でも開いちゃう門扉は問題かもしれない。
いや待て、どんなひとでも受け入れるのは優しいのでは?凄いのでは?と思うがそういう門扉は門扉としては機能していないのでやはり良くない。
身体にたくさんある穴は外部からくるものを区別して入れる入れないを決めたり決めなかったりして生命を維持するのでなんでも入れるのはやっぱりダメだね。なんにでも突っ込むのもよくないけど。


でセックスしないビッチと言い出したのは、ビッチがたいてい「いい子」だからである。それが幼少期のトラウマに起因したりしてるとしても、ビッチは人がいいので多くの棒から支持されるのであり、逆に多くの棒に媚を売るとみられて大体の穴からは嫌われたりするが、それは戦略として男社会をサヴァイヴするために選択せざるを得ない悲しみである。よく【女は陰湿】【男はさっぱり】というが、相撲協会などのゴタゴタを見るにつけ男だってメンツが絡めばひどく因循姑息だし、女の人もサバサバ系と言われる人が名誉男性じみてしまう。
結局人間はクソなのだ。風邪をひいたから思考がまとまらない。

要するに、母性的な胸元の愛と父性的な背中に背負う愛を具有したい、父性も母性も男女の別なく人間が等しく持ちうる善性なんだといいたい。
あとセックスは普通にしたい。回数や人数や質ではなくて愛情の確認として。
セックスしすぎるとどんな関係にも【混乱】が生まれてしまう。それはくんずほぐれつしてひとつになることで境界を融和する作用があるがゆえの副作用とも言える。
恋人同士ならセックスはいいこととされ、セックスレスはよくないこととされるが、肉親同士になるとギリシャ悲劇を例に出すまでもなく悲劇であり虐待になる。
昔の日本では祭りの日に乱パしてたらしいが、純粋におぞましいのでそこまでハレとケを実践しなくていい。

とりあえず三指ついて三歩後ろを歩く貞淑な妻をいつまでもいつまでも追い求めるすべての抑圧が嫌なのです。
村上春樹の顔を見るとノルウェイの森がお笑いになるという話があるが、あれは面白いのでぼくと僕の文章の関係もああなりたい。
おしまい。