テラノハ

言葉は涙だ。とベケットは言った。

2018-02-27の布団の中から

今日もいい天気みたいですね。

昨日は同期と喫茶店で打ち合わせをして餃子を食べました。ランチセット590円で手持ちが570円しかなかったので出そうか?と聞かれたのを断って単品で餃子とご飯を頼みました。480円。
ランチセットだと餃子が2人前頼める上にスープもつきます。餃子を食べてご飯をかきこみながら、セットにしときゃよかった……と思うくらいおいしかったです。人生の要諦が詰まったエピソードですね。

昨日見た『スリー・ビルボード』は評判に違わぬ傑作でした。きっとこれから先も名作の評判を不動のものにするでしょう。そんな作品を公開時に見たとあれば、わしが育てたと言えなくもないです。たぶんオスカー取るのでその前に見とくと一緒に盛り上がれます。今年は『シェイプ・オブ・ウォーター』もオスカー前にやるし比較的親切ですね。
ネタバレされる前に見た方が色々とおっっ!と思える作品です。主演のフランシス・マクドーマンドの頼もしさや脆さがまさに人間賛歌という感じでした。

先日行われた尾道映画祭で、自主制作映画の講評会がとりやめになったという記事を読みました。
http://eigamagazine.work/archives/5335382.html
作品を作った監督たちが上映現場にいなかったことにゲストの大林監督が憤ったそうで、そのお怒りは現場にいない僕でもわかります。礼儀とかどうこうの前に、普通に大林監督に会いたいと思うのだが。
大林監督は【良き規範を広めるためのもの】と映画を定義されてて、同じようなことをドラマ『重版出来!』の1話で小日向文世演じる三蔵山先生が言ってました(最近見始めて泣いています。特に1話で体の不調に断筆しようとした三蔵山先生が根性でなく具体的な解決策で復調する姿に泣きました)。
作品を表明するというのはすごく恐ろしいことです。表現することは自由だけど自由というのは好き勝手にやっていいということではなく、他人の価値観を変えかねない(変えられる)恐ろしさをもっています。ナチスを例に挙げるまでもなく国策〇〇とつく芸術が沢山あったり、検閲が行われるのはそれだけ表現が人を動かすからだと思います。
大林監督に怒られた自主映画監督たちにはどういう表現欲求があったのか知る由もないですが、映画というのはかっこいい映像、心地いい音楽、顔のいい役者を揃えとけば一応見られます。一応画面に集中させられる、くらいの意味です。でもそういう人が映画監督になった時、アミューズメントを呈しておだてられるだけでいいのかなと思います。
映画は見世物だしエンターテインメントだけど束の間の楽しさの中に、人生を変えられてしまう時間が確かにありました。『狂い咲きサンダーロード』を見て抑圧に対しては「全員殺せ!全員カタワにしろ!」って言いながら敢然と疾走せなあかん、と思ったし、『マッドマックス怒りのデス・ロード』をみて「俺を見ろ!」といいながら華々しく散ることがいかに美しく恐ろしいか、女性をモノ扱いして人間扱いしないことはキモイなとか色々学びました。
大林監督も三蔵山先生もお年を召してらっしゃるけれど、『良き規範を広める』ということを強調されるのはそれだけ映画ないし漫画に勇気づけられ、人々を勇気づけて来たからじゃないかなと思います。
自分の意見にそぐわない老人を老害というのはすごく簡単だけど、年齢は問題ではなくて思想や表現の是非で戦うべきだなと思います。
スリー・ビルボード』見たらなんかそういうこととか思いました。人間がんばれ人間すごいぞ、みたいな。

先日、また受付の手伝いをしてたとき面白いことがありました。
楽屋の隅にあるパソコンで作業してたら男子が僕のツイートに関する悪口で盛り上がっており、(わたしはここにいるよー)と懐かしの青山テルマが頭に過ぎるなどしましたが、本番前に喧嘩を売るのもダサいか……と思って我慢しました。ほんとはけっこう驚いててドキドキしました。殴れたら楽になれたと思います。ここから得た教訓としては「悪口は楽しい」「傍に本人がいる」です。
そのあと挨拶されたのでいつもより多めににこやかに返してあげました。向こうのメンタルがすごい。

ほんで一個下の子たちの卒業式があって無性にエモくなりました。受付をちょっと一緒にした何人かのことが慈しいと思いました。いい子たちだったのでまた会いたいです。
どうやら今日進級結果が届くらしく、卒業しました、とツイートする人もいれば抽象的なことをいう人もいます。
翻って去年の自分はどうだったかというと、進級して当たり前だと思っていて、他人の結果がどうとかより俺をちゃんと評価できんのか?見る目あんのか?という生意気な態度でした。幸い進級できたので親に喜びの電話をしました。慌てないでください、僕も親には感謝します。
この生意気さは、ほかの人が大したことないとか見くびってるとかじゃなくて、誰に評価されても恥ずかしくないくらいの活躍は出来たと思ったからです。進級できなかった人が落ち込む意味がわからなくて、選ぶ方に見る目ないんだなと思っとけばいいじゃんとかまた生意気に内心思っていました。
手段と目的がごっちゃになるといいことはありません。進級は手段や過程であって、目的や結果ではない。みんながみんな志望校に合格出来るわけじゃない大学受験と一緒です。ぼくは大学受験の時は、ぽやーっとしながらそれなりに通ってしまい、友人たちが目を合わせてくれなくなりました。

まぁ何がいいたいかというと、ぼくもやっと脳の機能が回復してきたらしく、他人に対する慈しみとか映画やドラマを見ながら涙が出てくるみたいなことが出来てきてます。そういうことに気づける人間でいたいし、そういうことを気づいてもらえる助けになりたいです。

村上春樹は朝、作文するらしいですね。
走りに行こうか、映画にいこうか、とりあえずごはんを食べて布団を出ます。