テラノハ

言葉は涙だ。とベケットは言った。

ガリガリのアンパンマン

という存在は成立しうるのだろうか、と帰り道で歩きながら思った。

アンパンマンは困っている人を助ける方の人で、顔をちぎっては渡し、ちぎっては渡し顔が濡れたり汚れると力を発揮できなくなって顔交換が行われる。
もし仮にアンパンマンがガリガリの不健康な体型をしていたら、アンパンマン足り得るだろうか。

まず無理だと思う。
アンパンチも放てないどころか飛ぶことさえかなわないだろう。なにより痩けた頬のアンパンマンが「僕の顔をお食べよ……」と無理やりひきちぎった自分の顔面を差し出しながら、虚ろな目で言ってきたら、かなりヤバいと思う。アンパンマンは困ってる人を助ける、特に飢えを癒す存在として創造されてるから、もし自分をアイデンティファイしているものが自己犠牲による他者への献身なのだとしたらとても悲しいと思う。ジャムおじさんもバタコさんもチーズもとんだサディストだ。アンパンマンブレードランナーだったら絶対自分の出自に悩んでたと思う。
アンパンマンの最大の利点は顔を交換しても意識や記憶が引き継がれて同じ個体として絶えず更新されることだ。顔が汚れようが濡れようがかなりの部分を配布しようが、古い顔を脱いで新しい顔を着ければたちまち回復してしまう。

真理があるな、と思ったわけです。
ぼくは自分で言うのもなんだけど、あまり献身を厭わない方の人間で利己的な時より利他的な時の方が充足感がある。そもそも段階として自己が満足していないと他者を利することは難しいわけで。
ところがこの半年は長らく顔が汚れて濡れたアンパンマン状態で必死に顔を配ろうとしていた気がする。アンパンマンは顔を配る存在だから、自分がどれだけ消耗しても顔を配らないと……と思いつめてるみたいな。もらった方もなんかねちょねちょしたアンパンマンのかけらなど腹の足しにもならないし、そもそもそんなに飢えてなかったりする。とりあえず休みな、とアンパンマンに促しても頑ななアンパンマンは顔交換する余裕がない。ジャムおじさんもバタコさんもチーズも困り顔である。

そんなアンパンマン嫌だわ。とやっと悟った帰り道。去年あんまり出れなかった1年生ミーティングにでて議事録を取ったりするのが結構楽しかった。手書きでメモしてスマホで清書する作業が妙にムラムラする工程で自分でもちょっとキモかった。
あと急に「今度ごはんいこうね」と言われたことが気になり始めて(社交辞令だとしても空気を読まない。)同期や高校・大学の友達に会いたくなって連絡を取り始めた。これにはややびっくり。本当に元気になってきつつあるのかもしれない。

アンパンマンの顔がどんだけ汚れようとアンパンマンの本質に陰りはない。あたかも曇りや雨の日に太陽がなくなるわけではないように。一時的に力が出せない状態になっても顔を交換すりゃあアンパンマンアンパンマンである。顔が交換できなくてもアンパンマンアンパンマンであるが、脱ぎ捨てられたアンパンマンの頭部はアンパンマンではないことから、大事なのはフィジカルとセットの方のアンパンマンで、ここにも気づきがある。すなわち筋トレをせよ、だ。

全然関係ないけど一昨日の夜に「ぼくは研修科の行灯になろう」と思った。演技、運営、雰囲気作りなどのそれぞれに抜きん出た同期はいるし凄く頼もしいからその人たちが日中を照らす太陽だとしたら、太陽が照らない夜にもふっとあたりを明るくできるような行灯になりたいと思った。昼行灯ではないよ。太陽があるから日中動いて夜は寝る江戸時代方式でいいか、というとそうじゃなくて電灯の開発に思い至らないと発展がない。(行灯の方が響きがいいし、『ホドロフスキーのDUNE』冒頭の「世界を照らそうとするものは、その身を焼かねばならない」というヴィクトール・E・フランクルの言葉が好きなので)
誰かに、なにかにおんぶにだっこなの嫌だ。駄々っ子として歩くぅ〜とむずがるからには足腰も鍛えねば。


愛と勇気だけが友達じゃない。
なにせ君がいるじゃないか。