テラノハ

言葉は涙だ。とベケットは言った。

2017-12-13の寒い夜だから

今日はめっちゃ寒い。

昨日は何もできなくて寝込んでしまった。

今日はチラシを劇場に送る作業を自力でできないので手伝ってもらいにいった。

元気な時なら教えられなくてもなんともない作業がにっちもさっちもいかなくてめちゃくちゃイライラする。
正確に言うと沸騰するようなイライラというほどの高まりもなくダラーっとした自責感とかみじめさ、モヤみたいな情けなさで心がきゅーっとなる。

昨日何もできなくて夏頃のゴドーの稽古をしてた時期の記事を読み返してみた。あの頃は毎日必死で帰りの電車でブログを吐き出して、どうにか戦っていることを確認していたが、その文面を改めて見直してみるといっぱいいっぱいで病んでるなーと思った。読んでる自分が病んでるからそう感じるのかもしれないけど。
すでにあの頃から食欲がない記述が多かった。ストレスで揚げ物惣菜をよく買っていたのもよくなかったのだと思う。
精神的に苦痛を感じる部分もあるにはあったが、楽で楽しくあるべきとも思ってなくて立ち向かってることに酔ってる部分も多分にあった。

稽古が終わってチラシを数えていると孤独や孤立という気持ちが抑えがたくなってくる。
去年演出家さんに「ちゃんと友達いるの?」と聞かれた時は笑ってごまかせたが、今この瞬間にそれを聞かれたらうまく笑えないと思う。
実際友達はいると思っているけど、さっきのあの空間にぼくは存在していなくていてもいなくてもいい人間だった。
声をかけてくれた人もいるにはいて、お前俺が見えるのか、みたいな気持ちもあったが朗らかに応対出来ないため、自然声をかけようという人もいまい。
沢山声をかけられたらこの気持ちが氷解するわけでもなく、そっと見守られるのを望んでいるわけでもない。
稽古終わりに疲れている人々相手に余計なことをと自分でも思う。
自意識過剰だなと自分でも思うし、考えすぎだよとアドバイスめいて言われたとしてもなんの意味もない。
川を見て「水が流れてるよ」というくらい無為だ。そんなの自明だ。
要は認識の問題で、世界が濁って見えるのも輝いて見えるのも自分の状態の鏡でしかない。
だから原因があるとするなら自分自身なのもよく知っている。
雨が降って水かさの増した川に近づくのは危ないことだけど様子をつい見に行ってしまう。

迷惑をかけている分役に立たなくては、と思って行動しているが達成感や帰属感を検知できず、なにかするたび無力感に苛まれる。なにもしなければそれはそれで無力そのものだ。
そういう状態を病んでるというのかもしれない。
今の今まで考えもしなかったが、ストレスの原因は稽古場なのかもしれない。役に立ちたい、仲間でいたいといった諸々の願望は決して達成されることはない。一つはすでに仲間であり役に立っているためことさら強調されない可能性。もう一つは脳がバグっているせいでどれだけやっても穴の空いたバケツに水を入れるみたいなことになっている可能性。
ペダルが欠けた自転車を無理やり漕いで進むことにどのくらいの意味があるのだろう。ちゃんと止まって自転車を直せればいいのだけど、ズテーンと倒した自転車をまた起こす力は湧くだろうか。この自転車にはいまスタンドすらもない。


先日手伝えなかった作業のことを先輩に謝ったら舞監さんに言ってとにべもなく言われてしまい、謝ったら許されると思っていた自分に恥じ入るし、こういうのが世間の標準的な反応なのだろうなと思っていやになった。自分の状態がどうあれ安請け合いしたことを悔やむ。役に立とうとすると迷惑をかける。ぼくはここにいない方がいい。

今辛うじてなんとかなっていると錯覚できるのは心配してくれる同期の優しさに縋っているだけで、他人の優しさに生殺与奪を依存せねばならぬことがとても悲しい。そんな風に人の顔色を伺わずとも決然と生きることが元気な時は出来たのだ。これからまた出来るようになるだろうか。もう辞めた方がいいのだろうか。

ぜんぶぜんぶ寒い夜だからいけないのだ。
僕は悪くない。寒い夜が自律神経を殺しに来てるだけなんだ。