テラノハ

言葉は涙だ。とベケットは言った。

学歴と山登り

昨日の夜中にふと点と点が繋がった気がしたのでボソボソ書く。

学歴と山登りは似ている。

誰も今まで登ったことのある山の履歴を顔に張り付けて暮らしてはいないし、自分から登った山についてあれこれ話し始める奴はいない。山登りをする人もいればしない人もいる。山登りが趣味といってはばからない人もいるし、高い山に登ることに意味を見出す人もいるし、沢山の山に登ることを大事にする人もいる。登りゆく途中の景色を楽しむ人もいれば、頂上からの絶景に感動することもあるだろう。
でも結局は暮らしている平地からある程度高い地点、低い気圧の場所へ身体を移動させただけのことである。生きていく上で必要不可欠な所業かといえばそうではなかろう。
しかしながら、山に登るためには計画がいる。天候や装備や自身の体力、コンディションなど。
その計画を立案し、実行できるという点において山登りには大きな意味がある。
わざわざ自分の暮らしている所から出かけてわざわざ高いところへ登って、登っただけでなくわざわざ下りて。しかもかなり疲れる。怪我するかもしれないし場合によっては遭難の危険もありうる。
それでも人は山に登る。そこに山があるから、と言った登山家がいたが、理由なんてそんなものかもしれない。

学歴とよばれるものもまたそのものにはなんの意味もない。そこに意味を見出すのは、計画を立案して継続して実行できたという経験ゆえである。
山に登らない人よりも山に登った人の方が、より多くのことを成し遂げる可能性がある。その可能性において学歴は価値を持つ。
誰も散歩の途中で富士山には登らない。槍ヶ岳には登らない。
登ったことで見える景色を美しいとか美しくないとか議論するのはあまり意味がない。
登れる人は偉くて、登れない人は偉くないという話でもない。

だけど人生にはそもそも意味などなく、その意味を見出していくにはどこか山登りにも似た作業が必要なのではなかろうかと、大して山に登ったことのない僕は夜更けに考えたのだった。