テラノハ

言葉は涙だ。とベケットは言った。

チンコで恋するのをやめようと思う

頭が痛いのでブログを書くことにする。

もし今ここにめちゃくちゃかわいいめちゃくちゃタイプな女の子がいて「好きにしていいよ」と切なげな声でいってきたら僕は多分好きにしてしまうと思うし、それは僕がそうするというよりも思考の主導権が脳からチンコに奪われているせいである。
チンコか、脳か。
本能か、理性か。
獣か、人間か。
この問いはデカい。

人間のオスは(巨大化する主語)、生物である以上子孫を残すようにプログラムされているけれど、生殖をなした途端にメスに食われるとか明らかに個体として能がなくなるみたいなことはない。
何が言いたいかというと、つがいになることなく一生を終える個体だっているし、オスとメスのつがいしか存在しないわけでもない。
生きていく理由は子孫を残すこと、つがいになること、恋することではないという話である。
しかしながら我々は(肥大化する主語)、恋愛にまつわる行動によって脳が快楽を感応する。
自分と異なる個体との粘膜の接触、あるいは会話、身体を通して他者を実感する行為は人間の心にやすらぎをもたらすだろう。

翻って私の半生を振り返って見た時、二次性徴を経て生殖機能がチンコに搭載されるようになってからこっち、悩まされるのはつがいがいないというオスとしての危機感と同時に、自己を受容してくれる他者の不在および今後の発見の可能性についてであった。
大学時代の私はおろかで、夜中に悲しんでいる女子がいればLINEして怖がらなくてもいいといい、
恋に悩む高校時代からの女友達からLINEがくれば徹夜で相談に乗ってやり、
もう死にたいと嘯く女の家にいって毎晩同衾することも辞さなかった。
サウイフ者にわたしはなっていた。

しかしそれらの経験が私にもたらしたのは、女性の扱いの巧みさではなく、ぽっかりと塞がらない愛の受容器官の潰瘍であった。
人に尽くすことで自らも応分に尽くされるべきという妄執に囚われて無間の霧をさまようハメになったのである。

いま、ここに、わたしは宣言したい。
わたしのチンコに主導権を握らせはせぬ、と。
興奮や欲情による恋心ではなく、互敬に基づき互恵をもたらす共犯関係をこそ希求する。
曰く「大人の恋愛」なるものがその実だらしのない下半身への敗北であり、際限のない自尊感情の放棄であり、有限な時間と若さの浪費に他ならぬことを改めて確認する。
他者と粘膜を擦り合わせたところで得られる刹那的な快楽のみならず、他者と見つめる方向を同じうする恒常的な幸福を追求したい。

チンコがまだ硬くなるうちにこの宣言を為すことを人は笑うだろう。
やがてチンコが主導権を取れなくなってから方針を転換しても仕方が無いのである。可愛い子には大抵彼氏がいるし、すぐ結婚するのである。

僕にだって好きな子がおる。好き、いうんは人に取られるのが嫌じゃけん早く一緒になりたい、だ。

強がったところでひとり寝の布団は広いし寒い。
だけれども、僕はもう悲しみを安売りすべきじゃない。
君にふさわしい男はそんな卑怯な真似をしてはならない。
つよがってやるぜもうしばらくな、と僕は思うのだった。

頭痛、未だ、やまず。