テラノハ

言葉は涙だ。とベケットは言った。

闇をみにいくその訳は。

僕はどうして映画館に行くのだろう。

好きだからにほかならないのだが、その好きの中身を考えてみたい。
ざっと思いついたのを並べる。
①興奮を買っている
職業訓練
③孤独の再確認

まず①。興奮を買っている。
およそ2時間でこの世ならざるものを目撃する権利を買っている(ただし優れた作品ほどこの世を映してしまう)。しかも今や映画は数千人の人間が関わり、幾百万ドルもの資金を費やした現代の代理戦争といっていい。特にハリウッドの超大作はこの枠で見に行っている。
〇〇温泉の入浴剤を買って気分は味わえてもその温泉にいったことにはならないし、ライブDVDをみて興奮はできてもライブ会場のように肌は粟立たない。映画館は暗闇と大音量と視界を圧するスクリーンで僕を連れ去る。
今月末の『ワイルドスピード ICE BREAK』など。

次に②。職業訓練
近い将来、僕は映画に関わってお金を稼ぐ生活をする。いや、したい。なんならもうしている気分。気分だけ。
料理人が食べ歩きをせず、ゲームクリエイターが新作ゲームにアンテナをはらず、作家が取材をしない道理はない。無論、有名店のシェフや売れっ子クリエイターや大御所作家はこういうことをせずとも何物かを為せるのだろうが、僕のような駆け出しの馬の骨はそうせずにはおれない。
そういう理屈でこれは職業訓練であって職業倫理に従った行動と自己規定している。
あるいは燃料の積載期間ともいえる。いつ満たされるとも、また満たされるものなのかも分からないが積めるうちに積めるだけ積みたいのだ。
趣味を仕事に、なんて言葉があるが趣味だからとか好きだからで出発したものを責務にしてしまうのは息苦しい。
それをせずにはいられないことをしていたい。
寝る前の歯磨きのように。朝起きて顔を洗うように。
この枠で見に行くのは日本映画が多い。

最後に③。孤独の再確認。
第一にスマホの電源を切れる身近な施設としての映画館。
第二に物語に対峙する一個の存在としての自分。
映画の中の人物は大体孤独である。もう少し正しい言い方をすれば、孤独であることから出発して、その孤独ゆえに他者との繋がりを作り出していく。
最近は『ムーンライト』がこの枠だった。見に行ってから気づく枠とも言える。
孤独はそれ自体悪いことではない。
孤独を言い訳に他者に依存したり、他者を攻撃してしまうのが悪いのだ。
映画館の暗闇に座す僕の前方、光の中で彼らは孤独を教えてくれる。それゆえに弱くなることも、それゆえに強くなることも、それゆえに他者を求めることも。

改めて自分の考えをさらってみたがうまく伝わったのかはわからない。まぁ伝える文章ではないからなのかもしれない。
映画館を出たらただの風景が少しだけ変わって見える。
結局、その瞬間のために僕は映画館に通いつめるのだろう。