テラノハ

言葉は涙だ。とベケットは言った。

古沢さんなりのリア王、『コンフィデンスマンJP』7話『家族編』

(※7話本編および『リア王』のネタバレを含みます)

一言で言えば、7話はシェイクスピアの『リア王』を古沢良太が翻案したみたいな話だった。

・『コンフィデンスマンJP』のあらすじ
詐欺師の話。ダー子(長澤まさみ)、ボクちゃん(東出昌大)、リチャード(小日向文世)がお金をもってる人からお金を貰うが利益は出ない(出さない)話。

・7話『家族編』の基本コード
ターゲット:金持ち老人の遺産
助けられる人:老人本人
釣り方:末娘に化けて潜入

・『リア王』成分
シェイクスピアはイギリスの偉大な劇作家。知らないならググること。
めちゃくちゃざっくり言えば『リア王』は老いた王さまが3人の姉妹に国を相続させる話。
7話ではこれが兄、妹、妹に変わっている。
さらに言えば、1番末の妹に老いた王さまが目をかけるところも同じ。
さらにさらに言えば、王様に付き従うもの(7話本編ではお手伝いさん)が王様を理解してました〜、というところも同じ。
さらにさらにさらに言えば『リア王』ではケントという登場人物が《王様から嫌われながらも身分を偽って王様に付き従う》という展開がある。
これは完全に『コンフィデンスマンJP』7話にリンクしてるので『リア王』翻案説は補強できる。

・『リア王』を横溝正史で割る
古沢さんは『リーガルハイ』で一話丸々『犬神家の一族』オマージュをやったくらいに横溝正史が好きな人である。
お金持ちの家に色んな人が集まってる感じは横溝正史の中でも『悪魔が来りて笛を吹く』に似ている。
似ているからなんなんだって話ですけどね。

・擬似家族になろうよ
古沢脚本の映画に『ALWAYS 三丁目の夕日』がある。
吉岡秀隆演じる茶川さんが須賀健太演じる少年と擬似家族になり、その擬似家族だってホントの家族くらい大事じゃん!というのが7話と『ALWAYS』には通奏低音として流れている。
そのあたりはぜひ7話本編と『ALWAYS』をみてほしい。

《まとめ》
古沢さんは『リア王』をうまく翻案していてすごいなと思った。
脚本家としての好みはあまり変わらないんだろうなと思った。

今日はうまく書けないけどこれでおしまい。

おれを二度殺す『コンフィデンスマンJP』4話『映画マニア編』

(※コンフィデンスマンJP4話本編、『リーガルハイ』の小ネタ、『キサラギ』のあらすじに関するネタバレがあります)

最高の回だった。
ただ1点を除いて。

・『コンフィデンスマンJP』のあらすじ
詐欺師の話。ダー子(長澤まさみ)、ボクちゃん(東出昌大)、リチャード(小日向文世)の3人がターゲットからお金を巻き上げるが利益は出ない(出さない)話。

・4話のあらすじ
ターゲット:俵屋フーズという食品加工会社の社長。
助けられる人:俵屋フーズの工場長。
ハメ方:映画マニアの社長を映画に出資させる。

佐野史郎起用の凄さ
佐野史郎さんはホントすごい。さんとか付けるくらいすごい。小劇場俳優から『夢見るように眠りたい』という林海象監督の映画でスクリーンデビューして以来、日本映画に欠かせない俳優である(個人的には若松孝二作品の佐野さんが好きです。あと『夢見るように〜』は未見です、すいません)。
しかも佐野さん自身が大の映画好きである。尾道映画祭にわざわざ東京から来てくださるくらいに映画好きでいらっしゃる。
【学生時代に小劇場に出ていて、自主映画も撮ってた大の映画好き】という俵屋フーズ社長の役をやるのにこれほどハマる人はおらん。しかも佐野さんは特撮がお好きでひょっとすると《俵屋》という苗字も特撮の神様円谷英二ひいては円谷プロと響きが近いから採用されたのかもしれん。
その俵屋フーズが製造してるのが「うなぎのカレー煮」というありそうで絶対にない食品。このネーミングもおそらく今村昌平監督の『うなぎ』とインド映画っぽいもの→カレーという着想な気がする。
アテ書きじゃなかったら何かの事故だと思うくらいに佐野史郎という人間と役柄がリンクしている。オファーを出した製作陣もオファーを受けた佐野史郎さんも偉すぎる。しかもめっちゃ悪役なのに。ありがとう、フジテレビ。ありがとう、佐野史郎さん。

・映画ネタの多さ
古沢良太脚本は古沢さん自身の映画好きがモロに出ており、出世作『リーガルハイ』においても古美門(演じるのは堺雅人)にグレーのジャージで街中を走らせ、生卵をジョッキで飲ます『ロッキー』オマージュが登場する。この『ロッキー』は誰が見てもわかりやすいのでこの4話でもボクちゃんが脚本を徹夜で書くシーンで生卵ジョッキが引用された。
その他『リーガルハイ』に出たオマージュには『犬神家の一族』などがあるがこれについては長くなるので割愛とする。

4話は映画マニア古沢良太が書いた映画マニア殺しのドラマである。
冒頭から頻出する監督や役者の名前だけでも黒澤明深作欣二岡本喜八菅原文太勝新太郎三船敏郎(登場順は記憶からの引用なので適切ではない)と誰でも知ってる名優や名監督揃い。しかもこれをセリフの中にうまく混ぜ込む。
ダー子たちが作った映画人行きつけのカフェバー(もちろん釣るためのもの)のカウンターに俵屋社長が座るだけでも
「そこは深作さんが座った席です」
社長が驚いて席を横にどくと
「そこは文太さんの」
といった具合(セリフはいずれも記憶からの引用のため正誤は本編を確認してください)。

黒澤明に至っては彼自身が描く絵を俵屋社長が社長室に飾ってるという具合に出てくる(いかにも古風な映画マニアの社長という人を表すのに黒澤明の絵画を所有というのがうますぎる!!!!)。
そのあと社長が映画撮影時に絵コンテを描いてくるが、これがモロに黒澤明が描く水彩画に似てるし、たぶん『乱』のときの仲代達矢に寄せて描いていてニクい。美術さんありがとう。
(※なぜ黒澤明かと考えれば3話が絵画にまつわる話だったので絵を描く映画監督だからだろう。)

岡本喜八はボクちゃんが岡本監督の孫という設定で出てくる。これもさりげなくて上手い。かつてのおじいさんを慕うスタッフが集まってくれた、というのがいかにも騙すのにピッタリ。岡本喜八は喜八組と呼ばれる固定スタッフの多かった監督なのでうまい。
『用心棒大集合』という劇中で作ることになる架空の映画はもちろん黒澤明監督・三船敏郎主演の『用心棒』が元ネタか。
さらにいえば勝新座頭市を、三船敏郎が用心棒役を演じ、岡本喜八が監督した『座頭市と用心棒』というややこしいけどホントにある映画が元ネタかも知れん。
とにかくエッセンスの拾い方と混ぜ方がいちいち気が利いててグサグサくる。

他にも春日太一さんが『あかんやつら』で書いた東映京都撮影所あるあるみたいなものがなんとなく出てきてニクい。伊吹吾郎役が伊吹吾郎なのもニクい。『リーガルハイ』で里見浩太朗を使ったと思ったら、ここに来て伊吹吾郎。やめてくれ、その起用は刺さる〜〜。

わけても出色なのは一言も名前を出さずに長澤まさみにチャイナドレスを着させた李香蘭オマージュ。マギー・リンという架空の中国の女優を登場させるからチャイナドレスを着ただけ、という一面的な見方も出来るが、どうみても李香蘭である。ぜひ画像検索してほしい(そこに至るマリリン・モンローの映画は見たことないのでここに書けなくて悔しい。くぅぅ!)。


・古沢さんの弱点
終盤、ダー子演じるマギー・リンに出資者という立場でピロービジネス的なサムシングを迫るシーンがある。
ここのツイストに古沢さんは《ねらっていたのはボクちゃん》というネタをもってくる。(うわぁ…)と思った。
古沢さんは倫理観が僕と合わない。精確に言うと昔は面白く見れたのに僕が合わなくなった。合わなくなったことは成長でも進歩でもない。合わなくなった。それだけなのだ。それだけなのに見てしまうのはファンだからである。いやマニアだからである。

古沢脚本に『キサラギ』という映画がある。この映画はめちゃくちゃ面白い会話劇だ。だけど《アイドルの死》を発端にお話は始まり、アイドルは字義通りの偶像として最後まで正体は明かされない。明かされないことは作劇の作法なのだが、古沢さんは男4人の盛り上がりのために女の子を1人殺してしまう人なのだ。
そういう倫理観の人なので、《実は出資者が同性愛者》でした~~というのをツイストに使ってくる。
作劇の作法としては見事だし、ダー子が手籠めにされるよりはボクちゃんが困った顔になる方が”おもしろい”から別にいいのだ。
面白いのに僕はつらかった。
きっとなにかを踏みつけにした”おもしろい”は僕には今、荷が重い。それがたとえフィクションであっても。見なければ済む話だけどそこは言わずもがなでさぁねぇ。
古沢脚本はこれからもずっと好きだ。そこだけは自信がある。

白い巨塔(田宮版)が映る!
終盤、サブリミナル的に『白い巨塔』、しかも田宮版が劇中で五十嵐(小手伸也)が見ているテレビに映る。これは第5話が『スーパードクター編』だから、といってしまえばそれまでなのだが、映画になった『白い巨塔』は田宮版だからだと思った。唐沢版もあるにはあるが、ここはやはり田宮版でなくてはいけない。
フジテレビの医療ドラマは数々あるのに、わざわざ田宮版の手術シーンを見せるあたりがニクい。
分かってるな古沢!と『アオイホノオ』のホノオくんみたいな気持ちになる。偉そうにも。


他にも「生まれ変わっても脚本家にはなりたくない!」と劇中で脚本を書くボクちゃんに言わせるあたり、古沢さんの魂の叫びが現れてたり、脚本家古沢良太を語る上では欠かすことの出来ない回だった。
そもそも語られるテーマと見せられるドラマが一体となった入れ子構造がたまらなく好きなのでこの回は本当にいい回だった(映画でいうと『バードマン』とか『地獄でなぜ悪い』を思い出した)。

映画が好きならこの回だけでもぜひぜひ見てほしい。
愛読感謝いたします。

エモエモのエモい敗者の大河ドラマ『キングダム・オブ・ヘブン』

(※言わずもがな本編のネタバレあり。)

キングダム・オブ・ヘブン』というリドリー・スコットの2005年の映画(ディレクターズカット3時間11分のやつ)をみた。
ざっくりした話としては鍛冶屋のオーランド・ブルームが地元で辛いことがあったところにリーアム・ニーソンがやってきて、ノリでエルサレムを救いに行く映画。
渡りに船。という言葉がしっくり来る話。まぁ渡る用の船は文字通り難破しますけども。

ヴィジュアリストリドリー・スコットらしく「いつかみたキリスト教絵画が動いている!」とおもった。
その意味において正しい活動写真。
リドリー・スコットは自分の制作会社スコットフリーのクレジットアニメにキリスト教では精霊や神の象徴である鳩を使ったりするキリスト教オタク(もちろん信者だろうがここではオタクと表現する)なので彼のキリスト教の知識が迸っている。
歴史を題材にした実話ものではあるが、フィクションとしてエモーショナルに描こうという意識が強くて楽しい。
聖書のことはあまり詳しくないが、弟が兄を殺そうとするのはカインとアベルの話まんまだなと思った
。しかもカインというのは鍛冶屋という意味があるらしい。まんまじゃん!(カインとアベルwikiwikiを引用元にするのはよくないがここでは引用しておく→ https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%99%E3%83%AB)。
あと馬を逃がしてしまって水辺でその馬と出会うっていうシーンがあるのだがすごく聖書にありそう。そこのシーンの撮り方がいつかどこかでみた洗礼者ヨハネとキリストの絵に似てる、というか単に水辺に来るというだけでキリスト教を感じる。
他にもリーアム・ニーソンがあばらに矢傷を受けてそれを治療するシーンがあるけど、ロンギヌスの槍の逸話っぽい。『オデッセイ』でも主人公の脇腹にアンテナを刺してセルフプチ手術をさせたリドリーなので、この辺りは性癖なのだろう。
全然関係ないけど『オデッセイ』は脇腹に傷を負った・死んだと思われた男が復活する話でもあるのである意味キリストを描いていると聞いたことがある。しかも『オデッセイ』は十字架を削るシーンがあるんで、やってることもキリスト的。リドリーはやっぱりオタク。マーク・ワトニー=キリスト説は僕の発案じゃないのでここまで。

もうとにかく絵画。レンブラントとかフェルメールの陰影で動く映画だと思ってほしい。空間設計・画面設計がほんまに贅沢なのでお話とか追わなくていいので絵だけみても楽しめる。リドリー・スコットはロイヤル・アート・オブ・カレッジという美術系の大学を出たので美術史の基礎教養があり、この辺りは狙っていると思って間違いない(町山さんが言いそうなことのマネ)。
レンブラントフェルメールはすなわちキリスト教絵画というわけではないが、上述の洗礼者ヨハネっぽい絵作りとかtheキリスト教絵画なシーンもある。うまく画像を引用して解説する元気はないが、本当にどこかで見たような絵画みたいな画面が続くのだ。
船が難破したところとかはジェリコーの『メデューズ号の筏』みたいだし、王宮で果物が映るカットはVanitasという虚無的な静物画群を思わせる。

もちろん画面だけじゃなくてキャストもよい。
主演のオーランド・ブルームの良さについてはあの伊藤計劃が言いたいこと全部言ってるのでそれを読んでください(キングダム・オブ・ヘブン - 伊藤計劃:第弐位相 / http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/touch/20050514%23p1
ほんでエドワード・ノートンが仮面の王(エルサレムの王様、実在)を演じとるんやけど仮面越しでも人徳と怒りが透けて見えるあたり、本当にすごい俳優だと思った。『バードマン』で演技のうまい俳優役を違和感なくやる俳優はものが違う。かなりネタバレになるけど大谷吉継と同じ病気(『もののけ姫』でいうと鉄砲作りの小屋にいる人と同じ病気)なので、その痛みや苦しみやその内に秘めた強さみたいなものがヒシヒシと伝わってきてエモい。
さらにその王様の妹(つまり王女)でフランス人ギーと結婚しているエヴァ・グリーンがドタイプすぎて辛い。あのいつものゴスいアイメイクと誘うようなアクセントで喋るエヴァ様!!!くそエモい。
しかもアラビアンな衣装を着て登場するので最高。そのあと白いヒラヒラの衣装になるのも最高。土仕事したあとのオーランド・ブルームの顔を香油(おそらく)で拭いてくれるんだけど、そのシーンまぁじでえっちだかんね。しかもエヴァさまは夫のある身。まだ2人は慎ましい距離を保っているので
「不貞じゃない 拭いてるだけ」
と言いながら拭いてくださいます。そんなんもうね、このあとどうなるかは誰にでもわかるだろ。もちろんいきなり襲ったりはしないけども、好きぃってなるでしょそんなん。お前ら付き合っちゃえよ!ってなったわ。
他にもデヴィッド・シューリスハリーポッターでいうとルーピン先生役)とかブレンダン・グリーソンハリーポッターでいうとマッドアイムーディ役)とかジェレミー・アイアンズハリーポッター出てない…)といったイギリスのいい顔の俳優がいい顔の役に配されており、作画が良いので見やすい。
シューリスはリーアム・ニーソンに仕えていた騎士で側近、右腕感が異常。グリーソンさんはがめついフランス人ルノー役なので意地汚さがもうプンプン匂ってきて「キッッツ」と心から言える。ジェレミー・アイアンズはね、片目に怪我していて猛者感が性癖にグサグサ刺さる。

お話をまたざっくりいうと
エルサレムにたどり着いたオーランド・ブルームと当地エルサレムの王様は戦争を回避したいと思ってるんだけど、例のがめついフランス人ギーやルノーは力こそパワーだと信じてるのでエルサレムをパワーで奪還したい。しかしそこに待ち構えるのはイスラム教圏の、いや世界史上の大英雄サラディン!!!サラーフッディーン!!!くぅぅ!
このエドワード・ノートンの賢王とサラディンの会見シーン、マジでやばい。『三国志』とかで見たやつ。いや三国志にはエドワード・ノートンサラディンも出てこないけど、わかるでしょ。ずらりと並んだ軍勢の中から大将が一騎すすっと進み出て、二言三言交わして自陣に戻るやつよ…。いや『三国志』にもないか、そんなシーン…。
この大軍勢の戦闘シーンは『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズとか『ブレイブハート』にもよいのがあるけど、『キングダムオブヘブン』は投石器が強そうなのがいい。『キングダム』の函谷関をこのテンションでやってほしい。
あとかなりフード理論に忠実な映画で、そこも見てて楽しい。誰が誰に食べ物をあげるか、誰が食べ物を粗末にするか、とかキャラの描き方に食べ物が深く関わっていて楽しい。

お話をまたまたざっくりいうと
滅びの美学というか無常観(ないし無情感)がすごい。十字軍というのは聖地奪還のための正義を掲げた集団だから十字軍主人公の映画だったら十字軍TUEEEキリスト教バンザイ!みたいにしたくなるだろうが(したくても出来ない史実ではある)、これは鍛冶屋のオーランド・ブルームが主演なので『マッドマックス2』ないし『マッドマックス怒りのデスロード』ぽいほのかな他人事・人助け感があって好きだ。もちろん当事者ではあるんだけど、視野狭窄や自己の正当化に宗教や信教を持ち出さないところがいい。良心にもとる行動はとらないので不快感がない。いやエヴァ・グリーンと結ばれるのはいいだろ、別に!!

ここまでさんざんエモさに付き合って書いてきたけど、キリスト教の知識も絵画の名前も世界史の授業も覚えてなくても間違いなく最後まで惹き付けられる魅力がこの映画にはある。
長いけど長さには理由があり、その長さなしには描けないドラマのことを大河ドラマと呼ぶ。これは間違いなく大河ドラマだ。機会があればあなたも見てほしい。

サラディンエルサレムを評した言葉がくそかっけぇんじゃ、マジで。
「無だ。だがすべてだ」
この一言に2つの宗教の聖地として長年、本当に長年政治的に難しい土地になってきた地への熱狂と興奮と諦観と執念がヒシヒシと入魂されててグサグサ来る。エモエモのエモ。


俺にとって映画とは?
「無だ。だがすべてだ」

いまさら見たっすよ『キャプテン・マーベル』

(※本稿は『キャプテンマーベル』『メッセージ』『テルマ&ルイーズ』のネタバレを含みます。※追記:また文中にミソジニックな書き方をしてしまった箇所があるため映画本編から得た学びをいかせていないと感じます。2019/04/15追記終わり )


「〇は感情的」というセリフを1度でも口に出してしまったらこの映画を面白く見れない呪いがかかっている。〇には女や男が代入可能。無論、日常で口にしてはいけない。

もちろんそんな呪いなど存在しない。
あるのは映画だけだ。
ここにあるのも映画の感想だけなので呪いではない。

キャプテン・マーベル』面白かったあ!
まず映画としての基本理念が「90年代を舞台に90年代ぽい映画を作る」というもので、それは大成功してる。若返ったサミュエル・L・ジャクソンが出ていたり(『ダイ・ハード3』)、ブロックバスタービデオ(アメリカローカルのレンタルビデオ屋さん)に落ちてきたりするあたりの目配せ(90年代映画を作るよという合図)に気づけると楽しかった。他にも終盤女二人が飛行機を操縦して渓谷を飛ぶのは『テルマ&ルイーズ』じゃん!と思えて胸がいっぱいになった(精確にいうとそこに気づけた自分に酔った)。
主人公のキャロルが表情を全部顔に出してくれるタイプの女の子で、普段感情を顔に出すのを抑圧してる身からするとめちゃくちゃ嬉しくなってしまった。

・実は中だるみ
序盤の《地球の一般的な20代の女の子として扱われるとイラッとしたり、ジョークに変えるキャロル》が見れるとかなり楽しかったが、中盤以降はバトルアクションパートになるのでそこはまぁまぁだった。そこのまぁまぁ具合も90年代のノリというか、およそ2019年の映画とは思えないテンポだった(同じヒーローオリジン映画なら『アクアマン』の方がサービス精神満載で好きだよ)。それすらも計算のうちだろうからこれもぐじぐじ言えたもんじゃない。

男の子的なもの《対決》をしない、する気もない。という所がキャロルのとてもいい所で、しかしそれは映画とは相性が悪い。
この人はこういう人です、こういうことに怒りますを重ねていって最後に怒らせてたものを倒すことでカタルシスを得る
という作劇はわりとあるあるである。MCUのオリジンものももうかなり数を作ってきているのでここにきて変化球を出してきたなーと思った。
キャロルがどういう人なのかを分からす時にドゥニ・ヴィルヌーヴの『メッセージ』というSF映画と似た手法、人格は同じなのに時制が急にジャンプするという分かりにくくなるやり方がされていて、混乱をきたす人はきたす。その混乱もキャロルの混乱と同質なので狙われたものなのに、ノイズになることもあるから悲しい。

キャプテン・マーベル』を上手い映画か、ときかれたら「そんなに」だし、好きな映画かときかれたら「かなり好き」だ。おすすめのヒーロー映画か?ときかれたらもっと色々あるだろう。

だけど「君は女の子だもんね」と言われてキレたことがある人ならぜひ見てほしい。おれは男だからマンスプレイニングみたいにならずに、こういう勧め方をするのはめちゃくちゃ難しい。けど自分の中の女の子的な部分に嫌気が差したことがある人(俺は男だけどある)にはかなり刺さる。刺さる人がかなりいるのに、
「女なのにヒーロー映画みんの?」
「いきなりキャプテン・マーベルみるなよ〜『アイアンマン』からでしょ〜」
「なに?笑 彼氏の影響?笑」
「これをダシにして男漁りすんの?」
とかいうクソみてぇな男の言動のせいで『キャプテン・マーベル』が、MCUが、映画が見られなくさせられるかと思うと立ちくらみがしそうだぜ。

ついついカドが立つ言い方ばかりしてしまったが、『キャプテン・マーベル』はそういう《男子的なもの》をかわす映画だからこういうブログを書いてしまう時点で映画からなにも善性を学べてない。
ただの映画と思うだろうが、おれには感情のお手本だ。

どうしていま公開されたのかといえばエンドゲーム前のこのタイミングしかキャプテンマーベルの仁と柄を顔見世出来ないからで、これをするっつうことはエンドゲームがどえらい事になるということで、それはとてもいい事だ。

とりあえず今日はここまで考えるのが精いっぱい。

R.l.P ユウヤウチダ

ロックをやるには僕は体が弱すぎた。

その体の弱さを発散するのがロックなのかもしれないが、弱さをぶつけるには心が柔らかすぎた。

女にぶつけるのもタバコを吸うのもコーヒーを飲むのもお酒を吸うのも立派なロックだったけどどれも僕には難しかった。

優しい人にばかり負担をかけるのはダサいからダメ。
タバコを吸うのはかっこいいけど呼吸器が雑魚いからダメ。
カフェインの不安作用でなにもできなくなるからダメ。
アルコールの酩酊を理由に人によりかかるのはダサいからダメ。

ダサいことはイヤで、ロックはダサさを嫌うからとことんロックになれなかった。

完璧になるなんて無理なのはハナから承知で、無理を通すのがロックだと思った。
大切なものを大切にするのに傷つけることを選ぶ人間はロックだ。
自分の体にしろ、身内にしろ友達にしろ、傷つけることからしか始められない人間をロックと呼ぶとき、「そばにいないでほしい」とギターがわめく。
「でもそばにいて」もドラムが叩く。
そういうアンビバレンスな気持ちを伝えられるからロックは便利だが、ロックは道具じゃないので不便な方がいい。


急にロックの話とかしといてなんだけどバンドをしたりしたわけじゃない。
ユウヤウチダのことも何も知らない。樹木希林という死ぬほどロックな女の特殊な旦那さんくらいにしか知らない。
内田也哉子さんの弔辞が素晴らしかったことだけは辛うじてわかる。

人の死をダシにしていっちょかみしたがるやつはかなりダサい。「だせェくらいなんだよガマンしろよ!」も言わずもがなロック。
でもそういうのも杖を突き出して「ロケンロール」といってくれそうなユウヤウチダ。

多分だけど岡本太郎もこんな感じだったと思う。
「かなり変だけどテレビに出てる面白い変なおじさん」
一言でくくられるとこれ。さらに余計に一言いえば
「隣には越してこないで」

でも岡本太郎もユウヤウチダもテレビには見えない強烈なものをどっさり抱えていて、そういう人間はいつの世も死んでから「死んでほしくなかった」といわれる。

いつもいつも自分の話。
ついこの前、東京でごく短くお世話になった男性の、まだ来てない葬式のことを考え始めたら泣いたので供養として書きました。

やりたい音楽ですか?
山下達郎です。

集中力と適切な長さについて、『天保十二年のシェイクスピア』を例に

この前、研究所の同期に借りっぱなしにしていた『天保十二年のシェイクスピア(以下、『天保』)』のDVDを見た。
シアターコクーンで行われた蜷川幸雄演出の舞台でざっくり言うと、シェイクスピア(昔のイギリスの有名な劇作家だよ)の全作品をあれやこれや組合わせて一本の作品にしている。
オタク的にいうとパスティーシュというかアベンジャーズというか本来出会うことのなかったそれぞれの作品が同じ世界を共有するというのは中々燃える。
あと出演者が豪華。蜷川幸雄アベンジャーズみたいなところがあり、お得感がある。

戯曲を読んだ時の感想はこれ。
http://beplum.hatenablog.com/entry/2018/05/17/193725

このブログではかなり面白くて褒めてるが、その面白さの大部分は舞台版ではスポイルされていた。
というかこの戯曲、あまりにも長すぎて上演用に書き直しが行われており、その判断は適切ではあるものの、『天保』がもつ病的なまでのシェイクスピア批判のセリフ(私がなぜ今これを言っているかと言いますとね、みたいなノリで役者が喋る。メタがすごい)がまず真っ先に削られている。
蜷川幸雄演出のダイナミズムで場面場面の盛り上がりはあるものの散漫というか、DVDでみたせいで集中力も足りず全然ノリきれなかった。
試みとして《シェイクスピア全作品を網羅的に登場させた侠客講談》は読み物なら大成功だが、上演する時はそれと同種のグルーヴが出せてなかった。
オールスター的な配役の妙や歌と踊りでテンションは高めでいきましょう、な演出は興行的には魅力だがいささか散発的になってたと感じる。
今度高橋一生浦井健治出演でやるらしい。宮川彬良が音楽をやるとのことなので曲も新しくなるのかもしれん。
ちなみに劇団☆新感線版というのもあるがそれはまだみたことない。

でここまでは前置きで、人間の集中力と適切な長さについて考える。
まず前提として人間の集中力はそれほど続かず、LINEとかTwitterとかに代表される瞬発的で短期的なコミュニケーションがさらに集中力を短くすると仮定する(ごめんなLINEもTwitterも好きだぜ)。
次に長い作品を腰を据えてみることができなくなった原因を最近の僕の体調から考えると脳機能の低下、体力の低下などが挙げられる。

脳機能が低下すると作品から得られる感動、
言い変えれば幸せ報酬感を得るのがだるくなる。
でも脳は楽しいものを供給しないと死んだままなので軽めの幸せ報酬感から得ていく。
以下その段階。
LINEでの会話
Twitterでのリプライ
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人によってはこれがタバコやコーヒーやごはんやガムを噛むや猫を撫でるやスマホゲーになる。
Twitterでヘイトを垂れ流すのはよくないぞ!
一個一個の善し悪しではなくて人によっての快には段階があるという話をしとるよいま。

ほんで人間は人生でいちばん時間を使っとることを優先せんと生きていけんので、多くの場合はここに仕事を代入する。
すると「大人になると子供の頃好きだったものが楽しめなくなる」といういつものアレが発生する。
楽しめないのがいいとか悪いとかではなくてなんで楽しめなくなるんかの話をしとるよ、いま。

集中力の段階が短いものから長いものに移るとき、人は大人になったと言うが、大人になると集中力がなくなるとも言われてしまい、どっち?と思う。
どっちも正解なのでそれについてはぐじゃぐじゃ言わん。

ここまで読ませて悪いけど結論は出てなくて
寝られんけん下書きをいじっただけなんよな、悲しいことに。
また続き書く気になったら続き書くね、ごめん。

はやく会話のプロになりたい

イヤミっぽいと思われてる時点ですべての会話に向いてない。本当におめでとうと言いたいだけでそこにお祝いの気持ちを100載せたいのに、イヤミっぽい人だと思われているので勝手に悪意を感じとられたら悲しい。


昔、1年ほど昔、カーテン越しに「bepって、生きづらそうだよね〜〜ギャハハ」という面識のない後輩数人による悪口をきいた。
その時はその後輩たちの大一番の前だったので凄みにいくとか迷惑はかけず聞いてないフリをしてあげたが、今考えると凄んでおけばよかったかもしれない。
すごみ方は分からないのでニッコリ笑って発言者に近づくとかそういうサイコみたいな絡み方をしていたと思う。まぁそんなことをするほど大事な相手でもないし、こちらも疲れるだけなので今ここで脳内で殺した。たぶんあれから4回目のメッタ刺し。

よく、悲しいことでもネタに出来て1人前みたいな聞いてないのに大人ですって感じのアドバイスを披露してくれる友達がいるのだが、そういうことじゃない。俺も元気な時はそう思うが、今は元気じゃないのでそう思えない。

悲しい時に悲しい気持ちに蓋をするのは大人な態度だけれども、悲しい気持ちが消えていくわけではなくて、ひっかき傷を残して蓋付きの容器のそこここに溜まるだけだ。
また新しい悲しい気持ちがやってきた時に、容器の内側をずりずりと音を立てて滑る新しい悲しい気持ちが、昔の分の古傷をえぐって落ちていく。

そうやって悲しみに関する知見だけは増えるが、体が言う事を聞かなくなってからは嵐が過ぎるのを待つように寝込むしかできない。

「筋トレしよ!」
いま筋肉至上主義の友達が通り過ぎましたね。
こちらは健康を維持する分の健康が足りません。

楽しい話が読みたいよね、春だし。
いま手持ちがないのでまた今度。