テラノハ

言葉は涙だ。とベケットは言った。

第220次高等遊民活動報告

今日はよい天気であった。

ここ数日は文化的な活動をよくしたので報告欲を満たします。

京橋にある国立近代美術館フィルムセンターで小津安二郎の『浮草』4K修復版を見た。アグファカラーという珍しいフィルムの発色を蘇らせるという企画で、復元デモから既に面白かった。我々が見ている色の認識は他者と共有できてないことをまざまざと思い起こさせられる体験。ディスプレイの色温度の癖とか映写機の解像度とか鑑賞者の年齢・健康状態などを加味すると僕たちは同じ映画を見ることなど出来ないのかもしれない。
『浮草』は小津安二郎お得意の家族的なものを主題にしたユーモラスで少し切ないお話。松竹の人なのに大映の作品なので撮影があの宮川一夫である。『雨月物語』でこの人は天才やと思ったけど今作もバキバキに美しかった。小津安二郎といえばローポジション、日の丸バストアップ切り返しなんだけど、ちょいちょい挟まるインサートの詩情が素敵すぎる。冒頭の灯台と瓶の対比を見た瞬間からこの映画に惚れた。あと赤色の発色が特長のアグファカラーを活かす色彩設計で、ぽつんぽつんと赤い何かが見つかるのでウォーリーを探せのノリで赤いものを探した。ポスト、地蔵の前掛け、庭の花、アイス、帯などなど。画面の縦横それぞれ3等分するところになんらかの補助線が見える。それは襖とか柱だったり、何もなかったりするがどのカットも落ち着いていて美しい。
役者陣も中村鴈治郎の頑固親父ぶり、京マチ子の色気、杉村春子先生の生活感、川口浩のスラッとした精悍さなど大映の人と小津組の人が入り混じるのがいいですな。わけてもヒロインの若尾文子がマジでかわいい。結婚してほしいと思った。『ブレードランナー2049』のジョイちゃん以来のプロポーズである。黒川紀章の奥さんでややおっかないババアとしか認識してなかったが、『浮草』の若尾文子は本当にかわいい。好き。川口浩を誘惑する郵便局のシーンでコロコロっと鉛筆を転がすのとか色気がある。神社の社殿で川口浩とキスするとこも根源的な男女の欲求の形にみえて神々しく美しかった
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ほんで常設展が日本映画の歴史をざざっと総覧するめっちゃおもろいやつでうひょーさすが国立!そこにシビれる憧れるーという充実の内容。小津安二郎が書いた山中貞夫追悼碑文にはその達筆と内容の高潔さに痺れたし、溝口健二デスマスクには(うわーこいつこの顔で女に刺されたりしたんかおっかねぇなー)と生々しいものを感じた。
8ミリ映写機がループ再生されてるコーナーがあってカタカタカタカタカタ回ってるフィルムも映写機の動作音も愛おしい空間だった。うち、あれ、ほしい。
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これは同時開催のポスター展よりサイン入りスターウォーズのポスター。記念撮影OKなのは嬉しい。
あと異様に安いのは国立だからなのか。僕はまだ学生の身分なので『浮草』は310円、展示は130円で見れた。一般だとそれぞれ510円と250円である。物価が歪んでるというかコスパがよすぎる。文化にはお金がかかるのにこんなに安く見てもいいのだろうか。
名画上映の宿命というか、じいさんばあさんが多くて僕が最年少くらいかなとほくそ笑んだのだがこんな文化を老人の楽しみに秘匿させるのはもったいないと思う。午前10時の映画祭は早起きが苦手なのであまり行けてないが名画は名前だけ知ってる映画の意味ではないのだなー。

今日は青山の会田誠展『GROUND NO PLAN』にいった。入場無料。助かる。
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猥雑なものが詰め込まれてる感じは会田誠らしかったが、企画意図がそもそも都市論なので絵画作品というよりは模型とか新宿御苑改造計画とかだった。
都美でやってた安倍総理パロディも見れたのは笑った。芸術家無罪というかアート無罪というか、奔放で自由ではた迷惑で近所にはいてほしくないけどこの世になくてはならない芸術家らしい芸術家だなと思う。セカンドフロアリズムなど芸術家が考えたという発想だけの特許みたいなものをドンドン打ち出していて面白いのは面白かった。一種の書生論、理想論なのかもしれないけどそういうことをいう大人がいてくれないとつまんねーなとは思う。
現実と対決、格闘してナンボという意味では度々Twitterで燃えてる会田さんはちゃんとしてると思う。思想に共鳴したことないけど態度には感心します。

僕はなぜ東京に出てきたのかを思い出す。
フィルムセンターは東京にしかない(別館もあるけど神奈川だし)。会田誠展がやってると知ったのは先々週だけどフラッといけるのは東京にいるからである。
東京に出てきてよかった。東京で体を壊して「人が住むところじゃない」みたいな捨て台詞で逃げ延びる話はよく聞くが、ぼくはここに暮らせることを許してくれた両親に感謝する。自力生活者とは胸を張れぬ高等遊民だけど、この半年の半死半生の病(びょう)ニートよりは高等遊民に戻れてよい。
いずれ来たる勤労の徒(仕事ではなく為事をする人)として生きる日に今日の青空を思い出せるといい。

2018-02-17のよく晴れた日

今日は寒かったけどいい天気だった。
そして今日は黒々としたエントリではありません。いい日だったので。

受付の手伝いを二公演分やった。
金銭の授受が発生するので気持ち声がワントーン高くなる。研究所の発表会の受付サービスにクオリティを求めてくる人がいたら流石にウザいと思うが、やるこちら側としては妥協したくないし舐められたくないので万全を期すしかない。後輩の手前、余計にええかっこしたくなる。

昼の回も夜の回もサクッとお金の計算があってめっちゃ嬉しかった。思わず後輩とハイタッチした。本番中だったので音が漏れてたらとても恥ずかしい。
昼の回の子も夜の回の子もしっかりしてて愛嬌があって、むろんよく知らない他人の手前被ってる猫の部分もあるのだろうが、猫はかわいいのでかわいかった。近頃、殺戮願望と愛情欲求の区別が分からなくなるというか、エロスとタナトスというか、他人と自分の距離感がうまく測れなくなるのだけど、後輩たちをすごく愛おしく思ってしまった。これは元気になってきたと見てよいだろう。先輩たちのことも好きだと思っていたがあれとはまた別種の、あれが憧れに近いものだとしたらこれは慈しみみたいなものなのかな。
僕は口も悪いし性格も悪いし視力も悪いけど、顔と声と心根はそこそこいい方だと思ってる。他者に対して誠実に興味がもてたのはとても人間らしくて満たされた気分だった。
帰りは寒い寒い言いながら同期と新宿まで歩いてごはんを食べた。同期とご飯を食べるターム(※追記:これ誤用ですね。タームの意味わかってないのに雰囲気で使ってた。まぁなんか機会って言いたかったらしいです)を増やす年にしたいと思っているのでありがたい。戦う女子の出てくる作品の話で盛り上がった。「いつか僕がそういう戦う女の本を書けたら、その時は君が主演してくれ」というキッザキザのセリフを吐けて満足した。書くことの魔に魅入られているとしたら、こういう垂れ流しのブログだけじゃないものも書けるのかもしれない。それがいつかはわからないけど。

同期と別れる直前、上りのエスカレーターに乗る。
「ほんと元気になったよね」
「うん」
こんなやりとりが出来る日が来るのだ。
まだ舞台には立てていないけどその日は近い。
お相伴のガパオライスは思ったよりも辛かったけどスパイシーでおいしかった。
この半年をスパイシーだったと呼べる日もきっと来るのかな。香辛料だけでは料理とは呼べない。
僕は僕の物語を舐り尽くすからな。

なんか息の根止めたいなーみたいな

今日はここらで一番の晴れだった。

朝、早起きできて納豆と卵でごはんを食べた。シジミの味噌汁も淹れてみた。
妙に気力ややる気が満ちていて気持ち悪いくらい気分がよかった。
母から図書カードを貰ったので早めに新宿に出て本屋で爪切男さんの『死にたい夜に限って』とポパイの20歳特集を買えた。ハッピーであった。
そこから歩いて信濃町までいって『生きてるものはいないのか』のゲネを見た。
前田司郎は映画も撮っとって名前くらいは知っていたが戯曲は初めて見た。とても面白い、ずるい作品だった。だっていきなり人がたくさん死んだらそんなん面白いに決まっとる。リンチとかロメロみたいな日常の不穏さがポストアポカリプスみたくてワクワクした。とにかく人が死ぬ。震えて末期の言葉を残しながら、意図せず予測もできず唐突に死ぬのだ。もちろん死に時は選べないのは現実も一緒なのでそれが誇大にカリカチュアライズされている世界で、死ぬ時になって隠していたりしまっていた言葉が出たりする。死の原因や発生ルールは教えてもらえないがそれにも意味は無い。
とにかく人が死ぬ。そして累々と堆積していく死体たちは舞台に残り、一人また一人と訳もわからぬことを口走り、ゾンビになる時みたいな動きで死んでいく。その死にざまの滑稽さ。日常ではまず見ることのない沸騰じみた死にものぐるいの身振りからパタッと動かなくなる身振りの零度への振れ幅は若い研究所の人間にうってつけ、しかもセリフの冗長率(えーとかあーとか、特に情報のない音)が多いのが好きだった。まぁ演じてる人たちは頑張りすぎるのでそこは好みとは違ったけども。セリフを立てるとかはまだ僕の方がいけるのではなどと調子に乗る。しかし、死にざまの暴れようは今の僕にはすぐには出来ないレベルのおかしさがあって楽しかった。
死にまつわる作品だからなのか、妙にセックスしてるみたいに見えるシーンがちらほらあった。男同士で叫びながら抱き合うの対面座位みたいだったし、首を絞める女の子たちもね。エロスとタナトスですわ。

目の前で人間がやってる舞台ならではの強度をもつ作品だなと思った。とても楽しそうで混ぜてほしかった。やっぱり僕は見るのも好きだが、やる側になりたいから東京におるのだ。


で、物騒なタイトルの話をすると夕方のゲネを見る時にふとそんな気分になった。あ〜なんか全員殺したいなーという思いが頭の中に満ちてしまった。特に殺意を抱いたような事態や人物はおらん。むしろ久しぶりに会える人が多くて嬉しくて楽しかったのだが、その反動なのかなんなのか、ここにいる人はみんな僕のことを僕と同じくらいには愛してくれないのだろうなーみたいなことを考えていたらそうなったっぽい。

その前段階として昼のゲネを見たあとごはんを食べながらどこがよかった誰がよかったという話をしたのだが、僕は人を値踏みするのがいつの間にか苦手になっており(それは芸能人の誰がかっこいいとかいった類のお遊びに過ぎないのだが)、楽しげに話す人々には申し訳ないがそこまで乗り切れず「こわぁ〜い」などとお茶を濁していた。
もう一つ気分が悪くなったことの遠因らしいのは、なんか知らないところでワンナイトラブが数件勃発していたらしき噂話を耳にしたからで、若い身空の男女が沢山いればそりゃつがうのがフツーだろうし、他人が他人とどうまぐわおうと他人どもの勝手なのだが、身近で起こっていたことを思うと妙に気持ちが悪い。みんな仲良くしろとは言わないが、せめて傷つけあわないでほしい。一夜の逢瀬に大人の恋などの文脈や物語を付与して自分に酔うというのは唾棄すべき行為だと思う。自分のチンコ(この場合は個々の性器ではなくて寂しがり他人を承認に使いたがる器官のこと)に負けてその場しのぎの関係を結ぶのは人間は本質的に弱いとしても、短期的に癒されたとしても長期的にはいい結果をもたらすはずがない。ここまで言い切るのはぼくが大学時代に他人の痛みに敏感すぎたせいで、きちんと手続きを踏まずに誰かの抱き枕と化したことがあり、その毒が抜けるまで大層しんどかったからである。トラウマというやつだろうか。
別にそれを実際にやってる人は好きでやってるので別に好きにしてくれていいんだが、僕も僕で好きに気持ち悪がらせてもらう。
我ながらこのブログの中でも会心の出来だった『チンコで恋するのをやめようと思う』にも記した通り、チンコで恋するのはよくないと思うよ。
寂しい気持ちで傷を舐め合うのは普通よりも気持ちが良いことだろうけど、その傷を直して現実と対決できるのは自分ひとりだと思う。支えられてナンボとも思うがそれとても誠実な手続きをふむべきだと思う。

今日は朝から頭が回りすぎて目が回る一歩手前みたいな状態であるが、これが案外軽躁のきもちーところでなんでも出来てしまうので今日も文章がやばいわけですな。
結局のところ、ぼくもワンナイトラブがしたくてイライラしてるのだろうか?それは違うだろう。たぶん全員といっぺんにセックスしたいくらいの隣人愛の拡大だと思う。あの人とはするけど、この人とはやだなみたいなことをしたくなくて全員といっぺんにセックス出来ないなら誰ともしない方が傷をつけずに済むと思うのだ(ここでいう全員は同期や先輩、ゆくゆくは後輩)。

まぁなんかそんな感じでザワザワモヤモヤしとったんすけど帰りに新宿で『悪女』を見たら1日の鑑賞カロリー使い果たしたからなのか、たくさん血まみれバイオレンスを見たからなのか爽やかな気持ちになりましたとさ。マジで『悪女』はやばいですよ。

2018-02-13の朝ぼらけ

元気にしています。

2月5日にミーティングと病院と電気代を払う任務を終えると慌ただしく京都にいくことになった。
父親の仕事の関係で(一度使ってみたかった文字列)、家族が勢ぞろいした。
京都は東京より寒かった。見渡せばどこにでも山があって盆地だなと思った。近代美術館でゴッホ展をやっていたので覗いた。日本との関係にフォーカスした展覧会で、昨今流行りの日本スゲー系のやつかと思ったらそこまででもなかった。年表をみるとゴッホが画家になることを決めたのは27歳らしく謎に励まされた気分になった。ポプラ並木にカップルが立ってる絵がゴッホらしくない整頓具合で妙に好きだった。でも僕はやっぱり『ゴッホゴーギャン展』のどうしようもないやおい感がたまらなく好きですね。
高校の同級生と一昨年の5月以来で久々にあって南禅寺とかを散歩した。お互い心配していたことがわかったが、お互い思ったより元気だねといいあえて安心した。会ってみるとLINEで連絡するよりたくさん情報を得ることが出来ます。みなさんもそうしましょう。
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京都から兵庫の祖父母のところへいった。山間なので寒かった。見渡す限り山だった。
肉を出されたが遠慮せずよく噛んで食べることが出来た。良質なたんぱく質。人の金で食べる肉はうまい。自分のことを心配して優しくしてくれる人の作ってくれたすき焼きはやたらうまい。体重計ったら二キロ増えて嬉しい悲鳴が出た。連日よく食べたので広島に戻る車内でやや苦しくなったが吐くほどでもなかったので僕の勝ちである。

実家は平屋だから寒かった。寒さ対策をきちんとせず重ね着を面倒くさがって寒さに震えていると父や母から「大学までいかせたのに馬鹿やな〜」とからかわれるハメになった。空気の層を作ると暖かいそうです。みなさんもそうしてください。
食べ物を食べてカロリーを取らないと体が温もらないことも分かってきた。足湯したり白湯を飲んだりするのは補助的なものであって内燃機関を動かさないと冷えるのである。体重計に乗ってみたら二キロ増えたのがなくなっていた。ぬか喜びだったのかな。
尾道に出て成人式以来で会ってない高校の友達とパンを食べた。社会人ぽかった。応援してくれたのがしみじみ嬉しかった。人に会って消費するエネルギーよりも得られるエネルギーの方が上回ってきてうれしい。馴染みの鍼灸院や思い出のシネマ尾道にも寄った。『彼女がその名を知らない鳥たち』がとてもエロくてよかった。蒼井優を抱きたいと思った人、松坂桃李エロいなと思ったことがある人はぜひ見た方がいい。
知り合いのお葬式で父母伯父祖母が出払うことになり留守番をする。伯父がNetflixに入ってるときいて狂喜する。年明けから念願の『デビルマンcrybaby』を見た。湯浅作品は『四畳半神話大系』しか見てないけど、やっぱりディフォルメの聞いたキャラデザならではの過激な世界観が好きだなと思った。セックスもバイオレンスもモリモリなのだが、これが押井守今敏というかマッドハウス作画のアニメだと生々しすぎて見る側の感情も作品世界も耐えきれないだろうなと思った。途中flashアニメ独特の手抜きにも見えるパートもあるにはあったが(劇場版鷹の爪みたいな)、豪華なところはきっちり豪華で嬉しかった。内山昂輝不動明村瀬歩飛鳥了もピッタリというほかなくとてもよかった。悪魔というと黒くてゴシックなイメージもあったが、ポップでダーティで原作読んだ時にやば……と思ったあの空気感が現代に再燃していてやばかった。ラッパー推しはよく分かんないけどまぁ楽しかった。10話かけて大きな流れがあるので劇場用でもテレビ用ワンクールでもなく一挙に配信されたのは面白くふさわしいと思った。このためにNetflix入るか悩んでいたくらいだったのでなんというか天佑を感じてしまう。
配信系のサービスはクレカを持ってないしそもそも稼ぎがないので敬遠していたがこんな便利なもんはないな〜と「くっ、殺せ!」みたいな抗えないものを感じる。この家の子になりたーいと思ったがここは実家だった。元気になりかけているからか、世界は自分の頭の中にある鏡なのか、実家で強迫観念や自責感に苛まれる他人の家みを味わわなくて、元気になるとお得だなーと思った。

ほんで今、岡山の後輩の家でこれを書いている。
夏に泊めてもらって一緒に『何者』とか『髑髏島の巨神』を見た子だ。あの時から既に限界ギリギリで、ごはんは食べられないし、家主を見送って昼まで寝てしまうし、それでも負けん気だけで活動していた結果がこの半年の病臥なのかなと思う。夏バテとも言えるのかもしれないが、原因はひとつではないだろうしわかりやすくワルモノを見繕って安心できるわけではない。生活習慣とか日常の思考も生活もよくなかったんだと思う。
元気じゃない時はダムが渇水してるみたいなもので、湖底に沈んでいた村が顕在化してしまう。閾値が水位のように下がっているとも言える。別に村の名残りは悪いとか悪くないとかいうものではなくそのダムに元々在るものだし、水位が下がるのは雨が降らないとか気象要件が大きい。別にダムがサボってるわけじゃない。そういう時は節水したり雨が降るのを待ったりしてやがて水が貯まるのを待つしかない。水が当たり前に使えないと利用者は不便だなーと思うが、利用者の気持ちとか心がけで貯水率が好きにできるもんでもないので諦めよう。
天然の湖とかは渇水したことないのもいて、羨ましいなとダムは思う。けどダムは水が貯まると水門放出したり市民の生活を穏やかにすべく頑張っています。
なんか思いついた時はいい喩えだと思ったけど着地はヘタでごめんね。

夏に泊まった時は5時まで寝られなかった。今は夜ストンと寝て5時にスッと目が覚めた。
元気にしています。元気にしていきます。

ガリガリのアンパンマン

という存在は成立しうるのだろうか、と帰り道で歩きながら思った。

アンパンマンは困っている人を助ける方の人で、顔をちぎっては渡し、ちぎっては渡し顔が濡れたり汚れると力を発揮できなくなって顔交換が行われる。
もし仮にアンパンマンがガリガリの不健康な体型をしていたら、アンパンマン足り得るだろうか。

まず無理だと思う。
アンパンチも放てないどころか飛ぶことさえかなわないだろう。なにより痩けた頬のアンパンマンが「僕の顔をお食べよ……」と無理やりひきちぎった自分の顔面を差し出しながら、虚ろな目で言ってきたら、かなりヤバいと思う。アンパンマンは困ってる人を助ける、特に飢えを癒す存在として創造されてるから、もし自分をアイデンティファイしているものが自己犠牲による他者への献身なのだとしたらとても悲しいと思う。ジャムおじさんもバタコさんもチーズもとんだサディストだ。アンパンマンブレードランナーだったら絶対自分の出自に悩んでたと思う。
アンパンマンの最大の利点は顔を交換しても意識や記憶が引き継がれて同じ個体として絶えず更新されることだ。顔が汚れようが濡れようがかなりの部分を配布しようが、古い顔を脱いで新しい顔を着ければたちまち回復してしまう。

真理があるな、と思ったわけです。
ぼくは自分で言うのもなんだけど、あまり献身を厭わない方の人間で利己的な時より利他的な時の方が充足感がある。そもそも段階として自己が満足していないと他者を利することは難しいわけで。
ところがこの半年は長らく顔が汚れて濡れたアンパンマン状態で必死に顔を配ろうとしていた気がする。アンパンマンは顔を配る存在だから、自分がどれだけ消耗しても顔を配らないと……と思いつめてるみたいな。もらった方もなんかねちょねちょしたアンパンマンのかけらなど腹の足しにもならないし、そもそもそんなに飢えてなかったりする。とりあえず休みな、とアンパンマンに促しても頑ななアンパンマンは顔交換する余裕がない。ジャムおじさんもバタコさんもチーズも困り顔である。

そんなアンパンマン嫌だわ。とやっと悟った帰り道。去年あんまり出れなかった1年生ミーティングにでて議事録を取ったりするのが結構楽しかった。手書きでメモしてスマホで清書する作業が妙にムラムラする工程で自分でもちょっとキモかった。
あと急に「今度ごはんいこうね」と言われたことが気になり始めて(社交辞令だとしても空気を読まない。)同期や高校・大学の友達に会いたくなって連絡を取り始めた。これにはややびっくり。本当に元気になってきつつあるのかもしれない。

アンパンマンの顔がどんだけ汚れようとアンパンマンの本質に陰りはない。あたかも曇りや雨の日に太陽がなくなるわけではないように。一時的に力が出せない状態になっても顔を交換すりゃあアンパンマンアンパンマンである。顔が交換できなくてもアンパンマンアンパンマンであるが、脱ぎ捨てられたアンパンマンの頭部はアンパンマンではないことから、大事なのはフィジカルとセットの方のアンパンマンで、ここにも気づきがある。すなわち筋トレをせよ、だ。

全然関係ないけど一昨日の夜に「ぼくは研修科の行灯になろう」と思った。演技、運営、雰囲気作りなどのそれぞれに抜きん出た同期はいるし凄く頼もしいからその人たちが日中を照らす太陽だとしたら、太陽が照らない夜にもふっとあたりを明るくできるような行灯になりたいと思った。昼行灯ではないよ。太陽があるから日中動いて夜は寝る江戸時代方式でいいか、というとそうじゃなくて電灯の開発に思い至らないと発展がない。(行灯の方が響きがいいし、『ホドロフスキーのDUNE』冒頭の「世界を照らそうとするものは、その身を焼かねばならない」というヴィクトール・E・フランクルの言葉が好きなので)
誰かに、なにかにおんぶにだっこなの嫌だ。駄々っ子として歩くぅ〜とむずがるからには足腰も鍛えねば。


愛と勇気だけが友達じゃない。
なにせ君がいるじゃないか。

二月の庭には雪がふり

気がついたら二月になっていた。

慌ただしいけど嫌じゃない実りのある6日間が過ぎ、本当の意味の平穏がやっと戻ってきた。
この半年、何もできなくても常に心を苛み続けてきたものが先輩の卒業と同時にやっとケリがついたらしく、呪いは解かれるためにあるのだなと思った。
6月のブログで『フェアリーゴッドマザーを待ちながら』と題してなんか知った気なことを書いた気がするし、当時としてはあの心境だったのだと思うが、僕は祝福されるべきプリンセスであると同時に白馬に乗る王子様にもならなくてはいけないと思う。
眠り姫もびっくりなくらい寝込んでいたけれど、他人の口づけですべての呪いが解けてめでたしめでたしにはならない。眠りからようようまぶたをこじ開け、顔を洗い、白湯を飲み、散歩に出かけて朝日を浴びる。緩んだ体を引き締め、呼吸を含む心肺機能を向上させる。健全な魂は健全な身体に宿る、という箴言は野球部や自衛隊のイジメ問題で簡単に反証できるけど、ひとまず僕は器を整えなくてはならず、焼きを入れ直して研がないとなまくらのままだ。心のこまやかさを守るためにも体を強くしたい。
役者は昔みたいに鑑札がないと名乗れないものではなく、自称でしかないと思う。それこそ地方で働きながら自分の劇団を持つ人も何人か知っている。そういう生き方も出来たかもしれないけど、一度も中央に出ないまま夜郎自大に自意識だけ肥え太らせてゆくのは性に合わないのでこうして東京に出てきたわけである。幸か不幸か能力があったからまだ東京にいれるのだと思う。幸か不幸か能力に欠けるから苦しんでいるのだと思う。能力は自分に感じてもらう面白みと読み替えてもいい。能力も面白みも後天的になんとかなる。
今改めて振り返るとすべての始まりは4月、最初の発表会に出られないことがわかって生活が不安定になったところからだったのかなと思う。体力的にも精神的にも健全から徐々に遠ざかりながら、その暗がりでとりあえず映画を観てることに満足していたところは否めない。映画を見てたことは財産になったが、体力を減退させた原因を押し付けられるほど映画は便利な毛布じゃない。
もともと根暗な人間だという自覚はあるし(このブログがその証左でしょうよ)、それでも表舞台に立ちたい欲望をぐつぐつさせるからにはネアカになるより身体を絶えず錬磨していなくてはと思う。自然体で舞台に立つためにこそ、筋トレという不自然で自制的な行為は必要だと思う。
腕が折れたボクサーはリングに上がってはいけない。なぶられるだけだし、相手にも失礼だし、なにより遠慮されて殴られないのがいっとう悲しい。自分がバチバチに殴りたいならまずきちんと階級に合うように鍛えなくてはいけないと思う。そういったレギュレーションが明文化されてないからこそ自力でよく自分に言い聞かせたい。
虎穴に入らずんば虎子を得ず、というがとりあえず虎穴に入るのは愚である。危険を顧みない勇気と対策を怠る蛮勇は似てるようで全然違う。虎に優しくしてほしいと願うのはハナからゲームの前提が崩れることであって、虎を黙らせるだけの装備や準備や対策が必要だと思う。虎の目をするのはロッキーだけじゃない。


などとここ最近よく思うことを並べてみた。
散歩や筋トレをして罰ゲームだと思わずにごはんが食べられるようになると幾分か生きていくのは辛いことじゃないのかもなと思えてくる。辛いからやめたいとか辛いことが当たり前とは思わないが、どうせなら辛くない方がいいに決まってる。楽な方を選ぶというより辛さをどう楽にするか。気の持ちよう、体の状態にもよるだろうけど。
僕は言葉を信じる側の人間で、言葉によって行動や思考を規定されて生きてきた。好むと好まざるとに関わらず、健やかなる時も病める時も言葉は鏡のように僕を映して時に導き、時に縛る。それは卵の殻のようなもので、生まれるためには卵の中にいないといけないが生きていくためには卵の外に出ないといけない。ヘッセも言っているみたいなことですよ。

6月から切ってなかった髪をようやく切った。頭が軽い。アニメでよくあるヒロインの断髪を思い浮かべる。
二月の庭には雪が降り、かくて新章ははじまる。
はじめねばなるまい。

2018-01-27の中間生存中間報告

生きてますよ。

一昨日から卒公の手伝いを頑張っている。
頑張るという状態がどういうものだったか体で思い出してる感じ。
やっと吐くかどうかを気にせず、とりあえず食べないと持たないという理由から摂食行動に積極的になってきた。

もっと早くから稽古場にいたらよかったのかなと考えもするが、仕事があるからなんとなく居心地がいい気がするだけだろう。それができたらもっと早くごはんが食べれるようになったり体力が回復したのかもしれないが、今更言うてもはじまらない。
不安のつけいる隙もなく早々に夜寝て朝起きられるのはありがたいけど自律的ではないのでやや物悲しい。

今朝は楽屋やら回って先輩や同期にちゃんと挨拶できたのが嬉しかった。
屈託なく人と接せられると顔つきというか面構えがややマシになっている気がする。つい一週間前は人非人の妖怪みたいな出で立ちだったと思うけど。

瞬間瞬間を大事に出来てる感覚、研修科の一員にやっとなれたかもなという幸福な錯覚、などそれなりにこの半年で溜め込んだ鬱屈や鬱血が徐々に雪解け水のように静かな音を立てて流れる感覚。

やがて大河となりますように。
疲れたけんこのへんで。
明日も生きます。生ききります。