テラノハ

言葉は涙だ。とベケットは言った。

2017-06-23の気怠

今日は晴れのような曇り。

洗濯物が溜まりすぎて履くべきパンツが見当たらずノーパンで寝たけど、お腹が痛くなったのでパンツを発明した人はすごいなと思った。
腹巻はしてたけどやはり冷えたらしい。
原始人も腰巻してる絵とか見るけどいつごろ気づいたんだろうか。
ココ、カクスみたいなノリの日が来たのだろうか。
隠したから見られるの恥ずかしくなったのか恥ずかしいから隠すようになったのか。
毛の処理してることを獣たちが知ったら笑うだろうか。染めたり剃ったり禿げるのを気にしたり。
彫像は美しいと思うけど人体のプロポーションはそんなに美しくない。
ジャコメッティはかっこよかったなーとしみじみ思い出したりした。

ゴドーをちょいちょい読むけど読めば読むだけ訳が分からなくなる。
ひとつ分かったのはこれは愛の話だなと思った。
エストラゴンとウラジーミルの関係性は持ちつ持たれつの腐れ縁で、親子の愛でもあるし同性間の愛でもあるし友愛でもある。愛は便利な言葉で、傷つけることさえも許容させようとするけどそれは欺瞞なのでちゃんとしたい。
明日はプレ稽古なのでまず寝られるか起きられるか遅刻せずいけるかが心配である。
読解はまぁしすぎということもないが、したところでするっと手を抜けていく気分なのでしたりなさに焦らず行こうと思う。
明日は行くだけ行けたら褒めておこう。

起きてからずっと右耳が聞こえづらくて寝すぎたかなーと思った。洗濯したら籠からまだ履いてないパンツが2つ出てきたので赤い方を履いた。なければないでいつか出てくるのかもしれない。パンツだけじゃなくて。
食欲がわかなかったので散歩した。夜風の湿り気があがっていてそんなに楽しくなかった。
中華屋さんに入ってレバニラをモサモサ食べた。
少しでも鉄分が補給されているといい。

明日は暑くないといいなぁ。

2017-06-22の休眠

今日は曇り。

昨日は家に帰ってからブログを書いてカウボーイビバップを見て、寝ようと思ったが寝られないので『ごめんね青春』を見始めた。
クドカン作品のファンだけど見てなかったので。どことなくTOO YOUNG TO DIEにも通じる男子高と女子高のドタバタで今のところキャッチーで楽しい。満島ひかりの髪型がとてもいい。キリッとしてて好き。矢本悠馬とか森川葵とかブレイク前夜の面々もいる。
最近のよくない癖は俳優さんの経歴で演劇系の人を探してしまうこと。『ごめんね青春』は生瀬さんと風間杜夫さんが目を引く。『うぬぼれ刑事』の西田敏行ポジションの風間さんが楽しい。
あとやっぱり学園ものというのは見てて憧れてしまう。小学生の頃に見た『ウォーターボーイズ』とか『ごくせん』とか『野ブタをプロデュース。』とか『マイボスマイヒーロー』とか。『花ざかりの君たちへ』もいいね。
学生の役は若い時しか出来ないからってのもある。
よくよく気持ちを振り返ってみるとテレビに出たいと思ったのは小学生の時に『天才てれびくん』を見てたからだと思う。自分と同世代の子たちが色んなことに挑戦したりドラマに出たりで羨ましかった。広島の田舎からどうやって毎週木曜の生放送にいけるかとか考えたがとても無理な話である。
だけど今となってはテレビにそこまで出たくない。いや出してくれるなら出るけど、うちテレビないし。
そのうち話が来るといいなーと思う。

今日はもう久々に人の形をしただけのナマケモノだった。
父からのお土産の芋けんぴをポリポリ食べながらちゃんとごはんも食べずに夜まで過ごしてしまった。先週の15日からずっと出ずっぱりだったしまぁ今日くらいいいことにしよう。僕はそういう品種というか個体なのだと思おう。
牛や馬にだって家畜と競走とか種類があるんだから、人間にだって頑張れるやつと頑張れないやつもいていいだろう。経済動物じゃないから生き長えてるのかもしれんけど、まぁ難しく考えるのはやーめた。
せめてと思ってお風呂に入ったら人としての尊厳と活力が湧いてきたので、ほんとお風呂は最高だ。ありがとうお風呂。また温泉に行きたい。去年城崎で文豪ごっこしたのが懐かしい。僕は温泉が似合うと思う。名前もそうだし。湯治ばっかりしてそう。
美術館と映画館と温泉に行くだけの人生がいいなぁ。
これは将来への逃避か不安かはわからんが、まぁいいことにしよ。今日はそういう日。

2017-06-21の膨満

今日は雨。それも大雨。いままでの遅れを取り戻そうとするかのような大雨。梅雨は僕と同じで計画性がないらしい。

昨日は帰ってから胃腸が落ち着かなくて咳も出だして日中クーラーを浴び続けたツケがきて自律神経がだいぶやられてた。
起きたけど起きてなくてもう布団に同化するしかないよと思ったが、岡山からわざわざG2が来てるので頑張って起きて電車に乗った。ジメジメした電車できくゆらゆら帝国は帰りたさを増してきたので、RADWIMPSのなんでもないやをきいてなんでもないやと言い聞かせる。

本日の美術館巡り一つ目は東京都美術館で『バベル展』
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大学の時に知ったブリューゲルバベルの塔がついに見られるというのでとても嬉しい。このブログでバベルの塔を建てるのだとか息巻いたことがあるが、その時に想定していたのはまさにこのバベルの塔で永劫に積み続けられるレンガが雲まで届く威容にかくありたしなどと思っている。
ブリューゲルだけじゃなくてネーデルラントの画家の作品も結構来てて、ヒエロニムス・ボスもわりと目玉だった。高校の時に快楽の園という作品を知ってから気になっていたボスだけど、快楽の園は来てなくて、変な魚の絵とかが来てた。ネーデルラントというと今のオランダとかベルギーとかなんだけど、ヨーロッパと言って想像してるヨーロッパよりやや北の方で、きっと曇りや寒い日も多いのだろうし、その風土もあってか色味のある絵でも画面の彩度は低くて、エッチングのカケアミの集中力が尋常じゃない。もはや強迫神経症的なまでの追い込みと根気で、作品のサイズもそんなに大きくない。
メインディッシュのバベルの塔も想像の3分の1くらいの大きさしかなくてびっくりする。その上で感じるスケールはめちゃくちゃ大きくて凄い。てっぺん付近で積まれているレンガはとても赤くて下層部はだいぶ落ち着いた色合い。その赤さがそのまま生命力のようにも思えるし、根冠細胞の活発な細胞分裂じみていて不気味に美しい。描かれている雲も日本画でいう『洛中洛外図』みたいな省略や想像の余地としての雲じゃないのでやばい。作業してる点のような人間は航空写真を見た時みたいだけど、ちゃんと作業してる。
拡大された3Dとかが見やすかったので嬉しかった。

二つ目は国立西洋美術館で『アルチンボルド展』
たまに美術の教科書に載ってる野菜で描かれた肖像画が有名。
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こんなコーナーがあった。なんというSNS映え意識。にしても髪の毛一種類なのは笑う。

まぁ変な絵なのである。離れてみたら人間の顔に見えるけど近くで見たら野菜や花や動物や魚みたいなのがズラーッとあって変な感じ。わりと最近の人なのかと思ったらハプスブルク家に抱えられてた宮廷画家でびっくり。古びてないというかシュールレアリスム的でもあるのかな。葛飾北斎北斎漫画で人間ギッシリの人の顔とか描いてたりしたけど、それに近いものもあった。畸形な細胞分裂というか科学実験の産物みたいでもある。
肖像画と静物画を繋ぐ画家という説明に違和感を解消してもらう。そりゃ発生の順序としてはそうなるはずで、そういうハイブリッドもありなのかよーと驚く。ハプスブルク家の力で博物学にも精通できたのでこんなに色々描けたらしい。
『ミッケ!』という絵本が好きだったが、それに近い情報量の多さがあって楽しかった。マステが可愛かったがガマンした。
このあたりでようやく雨が止むが、風はすごくて帽子を飛ばされた。

三つ目は『君の名は。』で瀧くんと奥寺先輩がデートしたとこでお馴染み国立新美術館で『ジャコメッティ展』。前回の『ミュシャ展』が嘘みたいに空いていてとても快適だった。
ジャコメッティ倉敷大原美術館にも1点あって、展示室から展示室へ降りる階段の先にいる変な細長いやつである。ブロンズという素材にしてはひどくアンバランスで、存在のギリギリさを表すような細い人である。
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回顧展だけあって細い人だけじゃなくてスケッチとかもあった。「見たままを見たとおりに描く」というのがジャコメッティ一生の命題だったらしい。視神経から脳へ伝わった電気信号が見せる画像と見たとおりの景色の質感は似て非なるものであるが、そういう誤差に“目をつぶる”ことで視覚芸術は制作や鑑賞を行うことが出来る。それなのにジャコメッティはそういう右足を出したと同時に左足を出すみたいなことに神経を使っていてすごい。長時間拘束するからプロのモデルじゃなくて近親者をモデルにしたというあたり、やばさが分かる。作業中にモデルが少しでも動くとあっ!と大きな声を出したというエピソードを読んでジャコメッティの目の時間感覚の集中力の鋭さを思う。「古池や蛙飛びこむ水の音」と芭蕉は詠んだが、集中力の彼方の静寂に水音の大音量にびっくりしたみたいなエピソードだなーと思った。同時にひどく神経をすり減らしそうでご苦労さまでしたと言いたい。ジャコメッティの作品はブロンズだからという理由もあるのかもしれないが台座や脚部が極端に大きい。それはまるで双子葉類を土ごとごそっと植え替えるように掘り出したようにも見えて不思議だった。

そのあとG2と『キングアーサー』を見たが、体が重すぎて瞼も重すぎて結局クライマックス前で寝てしまった。寝てしまったが、最大手サークルのガイリチだけあってジュード・ロウのかっこよさはまじハンパなく、序盤の編集のテンポ感がすごく好きだった。アンクルと同じくダニエル・ペンバートンの音楽もキャッチーだった。

バスタ新宿までG2をお見送りしてTSUTAYAにいったが、クソほどめんどくさかった。雨は上がったけど汗と地面の濡れた匂いと人いきれで夏祭りのあとみたいな渋谷は人の多さと裏腹に(あるいはそれゆえに)とても寂しかった。ウロボロスを見始めたとこだったのにごそっと借りられてて悔しい。ホドロフスキーも大体見たのでオンリーゴッドとコンスタンティンとかを借りた。
帰りの電車でいつもより丁寧にこのブログを書いていたら消えたので頑張ってまた書いている。
体力的に弱ってる時にめちゃくちゃハードに活動してしまったが、明日は寝込みそうで心配である。
もうすぐ稽古がはじまるが、体力的にやっていけるか心配だ。そうなったらそうなったでブログに書くことが増えて、みんな人の不幸の方が読み応えあるしいいかなとも思う。

そんな感じの1日じゃった。

2017-06-20の冷房

今日は晴れ。夏のやる気が感じられてうんざりする。

昨夜は友達と久々に4時間の長電話して楽しかった。恋バナなどでお互いにキュンキュンなりギュンギュンした。心のスポーツという感じがした。やはり持つべきものは話の尽きない友達である。

今日は下北沢は東演パラータにて新劇交流プロジェクトの『その人を知らず』の稽古場見学にお邪魔した。鵜山さんの演出を事前に拝む目的でしたが、最前列の桟敷に座っての涼しくもねっとりとした6時間でした。
お話は戦時下のキリスト教徒の青年を中心に、信仰と転向と政治と戦争を問う大作でした。
見ててすごく思ったのがマーティン・スコセッシの『沈黙 silence』でした。あれは江戸時代の長崎を舞台にキリスト教の宣教師が棄教を迫られるツライツライ話でしたが、『その人』は戦時下の東京が舞台で、これもまたある意味で棄教というか転向を迫られる話です。江戸時代のキリシタン弾圧も遠くなり、海の向こうと戦争をするような時代になっても信仰や信条はなんらかの形で体制と激突してそのあえかな真心をボロボロにされるのでなんというかやるせないです。祈りを持たずに生きるのは辛いのに、祈りを持ち続けるには人間は脆すぎるというのは『沈黙』を見た時の感想ですが、『その人』の方はなんというかツライけど強いとこもあってうぐわぁえーとなりました。
主人公は大人になれないというか、ここでいう大人というのは自分が信じているものを実際家として見て見ぬふりするということだけど、彼は見えてるものから目をそらさないし、周りからどれだけ頼まれても視線を切らさないのでなんというかもはやさんざんフリを無視するギャグみたいでした。フリに付き合わないやつをノリが悪いと非難するのは簡単だけど、最後まで流されない強さは誰もが持てるものではなくて、真っ当に生きることは傍から見ればギャグなのかもしれんなーと思います。
ノリが悪いと生きづらさはあるだろうけど、いつもいつも他人に乗らされるよりも自分のノリを、自分のビートを、持ってることの方が尊くしぶとく難しいことでだからこそ僕もそうありたいと願います。

帰りは1期上のお姉さんたちと染ちゃんとうどんを食べました。ビバ丸亀製麺。マイソウルフードイズウドン。
丸亀のテーブルでも冷房が直撃でした。

2017-06-19の陽光

今日は昨日とうってかわって晴れ。夏の日差し。

『家を出た』の講評でアトリエへ。
出演もしてないし、係の仕事もしてないので発言することもなし。
ひたすらメモして気を紛らわせる。
明日こそはと思う。泪橋を逆に渡りたい。
明日のためにその1をその2を思い出せ、と思う。
僕のテストステロンはどこにいったのかなーと思う。
主体性も燃焼感もどこに行ったのかなーと思う。
拳を磨いたわけでもなく、ある日突然強くはなれない。
6月の日差しが早くも僕の肌を灼く。
ジリジリしてるのは肌か心かどっちだろうね。

今日は珍しく父が東京に用事があるので(僕に会うためでもある)、一緒にごはんを食べに行った。
そういえば、昨日は父の日だったがそういえばと思い出すくらいに何もしてなかった。元気な顔でも見せてあげられればよかったが、心配されていた。焼肉を食べに行ったが脂身を食べて腹を壊すことを心配された。久々に父と2人でごはんを食べた。しかも東京でなので変な感じだった。ちゃんと話すのも久しぶりで変な感じだった。最近は『LOGAN』や『Guardians Of The Galaxy vol.2』とか『遠い空の向こうに』を見て父のことを考えることの多い時期だったので、ありがとうの一言でも言えれば気が利いていたが、特に言えなかった。
僕は恵まれているんだろうなと思う。だからといって他人と比べる必要も感じないが、恵まれていることは折に触れて手触りを確かめるべきだなーと思った。
父とごはんを食べれることも、東京にいられることも、特に悩みもないことも。
ないものではなくてあるものを数えることを僕はマーク・ワトニーから学んだのでそうする。

父と東京の夜風に吹かれて歩くのは妙な気分だった。
8時前なのに明るい。もう夏だなー思いながら父と別れて僕は駅へ向かった。

学歴と山登り

昨日の夜中にふと点と点が繋がった気がしたのでボソボソ書く。

学歴と山登りは似ている。

誰も今まで登ったことのある山の履歴を顔に張り付けて暮らしてはいないし、自分から登った山についてあれこれ話し始める奴はいない。山登りをする人もいればしない人もいる。山登りが趣味といってはばからない人もいるし、高い山に登ることに意味を見出す人もいるし、沢山の山に登ることを大事にする人もいる。登りゆく途中の景色を楽しむ人もいれば、頂上からの絶景に感動することもあるだろう。
でも結局は暮らしている平地からある程度高い地点、低い気圧の場所へ身体を移動させただけのことである。生きていく上で必要不可欠な所業かといえばそうではなかろう。
しかしながら、山に登るためには計画がいる。天候や装備や自身の体力、コンディションなど。
その計画を立案し、実行できるという点において山登りには大きな意味がある。
わざわざ自分の暮らしている所から出かけてわざわざ高いところへ登って、登っただけでなくわざわざ下りて。しかもかなり疲れる。怪我するかもしれないし場合によっては遭難の危険もありうる。
それでも人は山に登る。そこに山があるから、と言った登山家がいたが、理由なんてそんなものかもしれない。

学歴とよばれるものもまたそのものにはなんの意味もない。そこに意味を見出すのは、計画を立案して継続して実行できたという経験ゆえである。
山に登らない人よりも山に登った人の方が、より多くのことを成し遂げる可能性がある。その可能性において学歴は価値を持つ。
誰も散歩の途中で富士山には登らない。槍ヶ岳には登らない。
登ったことで見える景色を美しいとか美しくないとか議論するのはあまり意味がない。
登れる人は偉くて、登れない人は偉くないという話でもない。

だけど人生にはそもそも意味などなく、その意味を見出していくにはどこか山登りにも似た作業が必要なのではなかろうかと、大して山に登ったことのない僕は夜更けに考えたのだった。

2017-06-18の曇天

今日は曇りのち雨。いよいよ梅雨である。

そして「家を出た」千秋楽。
四月の終わりから始まっていよいよ終わりである。
家を出たが終わるということは僕の悄然もやっと終わるということである。
ゲネから数えると6回目の受付業務。そんだけやっても慣れない。慣れたくもない。先輩たちみたいに上手く働けるわけでも無く、デクノボーになっていく自分をうまく信じられない。
ニコニコするのを頑張ってみても、ただの景色と同じなので僕は僕として認識されない。
公演中アンケートの集計の手伝いをした。せめてそういう細かい作業だけは手早く出来て、ささやかな慰めになる。だからなんだと言う話だけど。蟷螂の斧というか貧者の一灯というか野辺に揺れる花のような話だよ。

バラシも頑張ろうと意気込んでみたが、危うくまた気分悪くなりそうになってお茶を買いに行った。せめて自分の体調の面倒を自分で見られてよかった。
打ち上げは大してお酒も飲めないし、楽しくおしゃべりする気も起きず、話しかけられることも大してなく、自分から話しかけに行く努力もせず、楽しんでるフリをする最低限のマナーもどっかへ捨てて、楽しそうな人たちをワーッと思いながら見ていた。知らないサークルの飲み会に紛れ込んだなーとか思っていたが、隣で飲み会していた人たちが紹興酒を差し入れてやってきて、その人たちの方がよっぽど楽しそうで僕は部外者よりも蚊帳の外の気分でした。
楽しくしようという気力もなかったので別に不満がある訳では無いけど、なんなら餃子がおいしかったです。

高校、大学は試験を経て集められているからわりと似たような集団になるという話を聞いてあーなるほど、と思ったが、高校の時も大学の時も自分はここにいていいんだろうかとか余計なことを考える時間の方が長かったようにも思う。翻って今いるここも似たような気分を味わう。
早く他人のことなんか気にする余裕もないくらい自分のことに一杯いっぱいになりたい。
時間があるせいで自分の内へ内へピントが合いはじめるからキリキリする。
まぁ僕は周りのことを気にしてナンボなんじゃけどね。

お店を出ると雨はほとんど降っていなかった。
それでも僕は傘をさして雨音を聞いてみた。
なにかにぶつからないと雨は雨音を出さない。
もっと沢山雨が降ればいいのに、と思った帰り道。